清浄寺(しょうじょうじ)は、名古屋大須のお寺。大須には、大須観音、万松寺などの大きなお寺があるが、それと比較するとずいぶんと小さい。本堂の裏には矢場地蔵尊があり、「矢場の地蔵さん」と古くから親しまれている。 古くは、小林城がここにあったというが今はその面影もなく、静かな空間となっている。
矢場とんとは、大津通を挟んでちょうど反対側にある。
名古屋市の中区にある「丸田町(まるたまち)交差点」は、100m道路の若宮大通と空港線が交わる巨大な交通の要所です。普段はクルマで通り過ぎてしまうこの大交差点を実際に歩いてみると、江戸時代の歴史を今に伝える貴重な「丸田町角道標」を発見しました。本記事では、大都会の真ん中に隠された歴史スポットの魅力とお散歩ルートを写真付きで詳しくご紹介します。 実は私も、普段はクルマで何気なくビュンと通り過ぎていた場所なんです。でも先日、用があって、たまたま丸田町で市営バスの乗り換え(とってもマニアックな移動です!)があって、そのちょっとの待ち時間に交差点周辺を少し歩いてみたら… そしたら…びっくり!!クルマのス…
正徳6年閏2月19日。瑞祥院様(徳川吉通正室)・千姫様(徳川吉通長女)が大津町清浄寺へ出向かれる。500疋の土産、初尾(初穂)金として1分。小田切三左衛門を佐久間猪九郎が付いて内藤喜左衛門宅へ呼び寄せ、15ヶ国の追放とする。使者は京極半左衛門、目付は井上孫右衛門が勤める。
正徳4年7月20日。辰刻(午前7時)、法事が始まる。相応寺が仮導師を勤める。昨日は清浄寺が名代で入院の儀式を済ませており、檀歴が到着しだいいつでも導師を勤める予定である。御馳走奉行は五味平馬・榊原孫助・星野七左衛門が勤める。惣門は高橋文右衛門・小笠原八郎右衛門が勤める。三門は播田与左衛門・高田林左衛門が勤める。裏門は牧彦右衛門・伴田平次右衛門が勤める。名代は大紋で駿河守(大道寺)が勤める。瑞祥院様からの名代は中村又蔵が勤め、入仏事を行い、頓写は霧山が勤める。
正徳2年11月16日。法事が終わる。今朝、行赦が4人ある。この度の経奉行は寿経寺が勤める。遍照院・清浄寺・西蓮寺・清安寺・光明寺が上人。宗心院・全順院が西堂。光寿院・申竜院・養寿院。名代は束帯で飛騨守が勤める。五郎太様名代は間宮造酒之丞が勤める。姫君様名代は桜井内記が勤める。万五郎様廟へも参詣する。安藝殿からの使者がある。宿坊が宗心院が勤める。香奠は30枚。物頭以上は香奠と拝礼がある。姫君様からの香奠黄金1枚。本願寺懸所からも黄金1枚。
宝永4年8月21日。上田織部は願いにより役を解かれ、寄合となる。座は以前の通りで、足米も500石全て下される。少し前、尾張に戻った際はかなりの威勢であったが、次第にそれも失せていた。嶋松右衛門の弟子の稽古を見たくて御意があったようににおわせたが、どうしたわけか終にこれを見なかった。清浄寺の間地を設けさせたのも織部の仕業と云々。小姓高橋政之助が飛騨守宅でかため(約束、契り)の際に立ち合うはずであったが、不案内と立ち合わなかった。飛州は怒ってこのことを江戸へ訴えたと云々。近頃、名古屋で大村源兵衛二枚手形(奉公人の請状)のことが大いに噂になると。蔵へは出かけなかったと。このため国用人衆に源兵衛はこの…
宝永4年7月6日。近頃、大津町下清浄寺の敷地内に空地を設ける。そのことを屋敷奉行は全く知らなかった。上田織部から命令かも。飛騨殿はそのことを聞かれて不快に思われたと。
宝永3年2月17日。坂崎佐右衛門は行いがよくないため親類に預けられる。跡部仲右衛門も父元右衛門に預けられる。これも行いがよくないため。ただし、厳しい処罰ではなく、行いを戒めるためのもの。近頃、大津町清浄寺へ遍照院が住職として入る。これは創始者とするとの言い渡しがある。大公および松寿尼公から拝領した仏像・器物などは残らず目録にして渡すようにと呑竜法師に申し渡しがある。性高院塔頭称名院は勧められ隠居する。高岳院寺家浄峯院がこの跡に行くはず。近頃、喜子進様中間伝右衛門が七間町の牢に入る。近衛流で書き物をしていたが、久四郎の仲間に頼まれ、ひたち村への文を書いたため。
宝永2年11月10日。近頃、桑名町3町目太左衛門が預けられ、詮議がある。これは元々さいとり(才取、米などの仲買)が大津町にあり、今はここに庄屋を泊めていた。代官の手代や百姓などに頼母子を依頼して、太左衛門に今の家を買い求めさせ、ほかの庄屋宿へ来る者も無理矢理太左衛門の宿に泊まらせるなど色々なことがあった。濃州関などから遊女呼び寄せ、その他にも盲女を世話して座頭を呼び寄せ、手代などの遊所とし、結構派手に遊ばせていた。起村右衛門七子が三宅善内の手代見習いをしていた頃から美濃の女は自由にできたと云々。この者は手かね(手鉄)をかけられ、国奉行の内牢に入ると云々。冨永三右衛門手代にも同様の者が2、3人い…
宝永2年8月28日。清浄寺で地蔵入仏のねり供養が行われる。寺門内の茶屋は開かれず。
宝永1年4月19日。和田六左衛門召仕由助は百姓で信府村の者であった。同じ村から来た百姓で若党高橋紋右衛門と同僚であった。ある時、由助が紋右衛門の女房を犯したことが露見し、若党と由助は口論となったと云々。昨日夕暮れころ、目薬を求めると言って暇を貰って出かけたが、その夜は帰って来なかった。この日未半(午後2時)頃、鍛冶屋町下清浄寺の裏の通りの途中で喉と腹を少しずつ切ったが、死んではいなかった。その夜、夜中過ぎに六左衛門のところに引き取る。在所へ遣わし養生させる。由助は24。