清浄寺(しょうじょうじ)は、名古屋大須のお寺。大須には、大須観音、万松寺などの大きなお寺があるが、それと比較するとずいぶんと小さい。本堂の裏には矢場地蔵尊があり、「矢場の地蔵さん」と古くから親しまれている。 古くは、小林城がここにあったというが今はその面影もなく、静かな空間となっている。
矢場とんとは、大津通を挟んでちょうど反対側にある。
正徳2年11月16日。法事が終わる。今朝、行赦が4人ある。この度の経奉行は寿経寺が勤める。遍照院・清浄寺・西蓮寺・清安寺・光明寺が上人。宗心院・全順院が西堂。光寿院・申竜院・養寿院。御名代は束帯で飛騨守が勤める。五郎太様御名代は間宮造酒之丞が勤める。姫君様御名代は桜井内記が勤める。万五郎様御廟へも参詣する。安藝殿からの使者がある。宿坊が宗心院が勤める。香奠は30枚。物頭以上は香奠と拝礼がある。姫君様からの香奠黄金1枚。本願寺懸所からも黄金1枚。
宝永4年8月21日。上田織部は願いにより役を解かれ、寄合となる。座は以前の通りで、足米も500石全て下される。少し前、尾張に戻った際はかなりの威勢であったが、次第にそれも失せていた。嶋松右衛門の弟子の稽古を見たくて御意があったようににおわせたが、どうしたわけか終にこれを見なかった。清浄寺の間地を設けさせたのも織部の仕業と云々。小姓高橋政之助が飛騨守宅でかため(約束、契り)の際に立ち合うはずであったが、不案内と立ち合わなかった。飛州は怒ってこのことを江戸へ訴えたと云々。近頃、名古屋で大村源兵衛二枚手形(奉公人の請状)のことが大いに噂になると。蔵へは出かけなかったと。このため国用人衆に源兵衛はこの…
宝永4年7月6日。近頃、大津町下清浄寺の敷地内に空地を設ける。そのことを屋敷奉行は全く知らなかった。上田織部から命令かも。飛騨殿はそのことを聞かれて不快に思われたと。
宝永3年2月17日。坂崎佐右衛門は行いがよくないため親類に預けられる。跡部仲右衛門も父元右衛門に預けられる。これも行いがよくないため。ただし、厳しい処罰ではなく、行いを戒めるためのもの。近頃、大津町清浄寺へ遍照院が住職として入る。これは創始者とするとの言い渡しがある。大公および松寿尼公から拝領した仏像・器物などは残らず目録にして渡すようにと呑竜法師に申し渡しがある。性高院塔頭称名院は勧められ隠居する。高岳院寺家浄峯院がこの跡に行くはず。近頃、喜子進様中間伝右衛門が七間町の牢に入る。近衛流で書き物をしていたが、久四郎の仲間に頼まれ、ひたち村への文を書いたため。
宝永2年11月10日。近頃、桑名町3町目太左衛門が預けられ、詮議がある。これは元々さいとり(才取、米などの仲買)が大津町にあり、今はここに庄屋を泊めていた。代官の手代や百姓などに頼母子を依頼して、太左衛門に今の家を買い求めさせ、ほかの庄屋宿へ来る者も無理矢理太左衛門の宿に泊まらせるなど色々なことがあった。濃州関などから遊女呼び寄せ、その他にも盲女を世話して座頭を呼び寄せ、手代などの遊所とし、結構派手に遊ばせていた。起村右衛門七子が三宅善内の手代見習いをしていた頃から美濃の女は自由にできたと云々。この者は手かね(手鉄)をかけられ、国奉行の内牢に入ると云々。冨永三右衛門手代にも同様の者が2、3人い…
宝永2年8月28日。清浄寺で地蔵入仏のねり供養が行われる。寺門内の茶屋は開かれず。
宝永1年4月19日。和田六左衛門召仕由助は百姓で信府村の者であった。同じ村から来た百姓で若党高橋紋右衛門と同僚であった。ある時、由助が紋右衛門の女房を犯したことが露見し、若党と由助は口論となったと云々。昨日夕暮れころ、目薬を求めると言って暇を貰って出かけたが、その夜は帰って来なかった。この日未半(午後2時)頃、鍛冶屋町下清浄寺の裏の通りの途中で喉と腹を少しずつ切ったが、死んではいなかった。その夜、夜中過ぎに六左衛門のところに引き取る。在所へ遣わし養生させる。由助は24。
元禄13年6月8日。柳生連也元屋敷を浄土宗清浄寺が拝領する。知多郡大宝でも田地10町(1町は3000坪)を下される。これは大公(光友)から。
神奈川県の葉山の海岸 きのうの集いが開かれたのは、神奈川県の逗子ではなく、その南の葉山だった。 葉山といえば皇族の別荘である御用邸の所在地で、保養地として知られる。 そんな場所で、昔の山岳部の仲間に再会することができた。 最初に行ったのは、「清浄寺(しょうじょうじ)」という寺だった。 海外合宿の翌年に不慮の事故で亡くなった後輩の墓参りを参加者全員でした。 境内に彼岸花がぽつんと1輪だけ咲いていた。 墓参のあとは、宴となった。 会場は「日影茶屋」という日本料理の店で会費は1万5000円。 店の雰囲気も含め、私には分不相応だったが…。
正徳2年6月13日。卯(午前5時)前、小頭から廻文があったので理殿亡妻の3回忌のため文左衛門は近所の仲間と白林寺へ出かける。観音懺法が行われ、むしくわし(蒸し菓子)が出る。仕事のため文左衛門と弥左は早く帰るようにと小頭が言われたので、懺法が終わると直ちに清浄寺へ出かける。(後略)目付林武兵衛は夜廻りに出かけた。万松寺あたりで馬上でくらくらしていたので召仕が声をかけると、少し気持ちが悪いと応えた。半町(1町は約100メートル)ほど行くと手縄をがらりと離し、落ちそうになったのを召仕が抱いて下ろすと気を失っていた。背負って家へ帰したと。夜廻りは堀勘兵衛と一緒であったと。その後手足が冷たくなり、終には…
神奈川県三浦郡葉山町堀内の清浄寺(訪問日:2024年5月11日)龍圓山を山号に冠する浄土宗寺院です。山門の右脇に石塔が2基置かれています。向かって右から掲載します。文字庚申塔(青面金剛塔) 刻銘「(紀年銘不詳) / 青面金剛塔」 自然石型 念仏供養塔(六字名号塔、徳本名号塔) 刻銘「(紀年銘不詳) / 念佛講中 / 南無阿弥陀佛 / 徳本 / 〈花押〉」※記憶だと背面に紀年銘があったと思いますが、写真を撮り忘れました。 自然石型 おまけ境内の六地蔵堂。中央には半跏の延命地蔵尊も納められています。本堂の彫刻 清浄寺の所在地
真清浄寺様にお参りに行ってまいりました 新宿区西五軒町1
www.youtube.com コースは ridewithgps.com 氏家ゆうゆうパークをスタート 今年はまだ桜は二分咲きぐらいです。 いつもは勝山パークブリッジを通るのですが工事中でした。 サイクリングロードを通ります。 勝山パークブリッジz 清原工業団地3号緑地で桜まつりをやっていました。 ステージが出来ていて演歌が流れて居ました。 「里帰り桜」清原への石碑がありました。 明治45年、日米友好新鮮と世界平和を願い、憲政の父尾崎行雄と西品川植物園主川瀬春太郎が、アメリカのワシントンへ桜の苗3千本贈った。 ワシントンには、百年たった今もなお、コノ桜が咲き誇っている・ その「里帰り桜」として…
概要 揚州のあゆみ 争覇の丘【春秋~南北朝】 放蕩天子の南柯夢【隋】 どうせ死ぬなら揚州で【唐】 大運河と漕運 天下の両淮塩 国際都市・揚州 揚州十里の珠簾 開花ふたたび【宋~清】 大運河史話 運河の成り立ち 隋堤 垂楊三百里 京杭運河の誕生 運河か海か 揚州の女性たち 揚州美女の来歴 揚州痩馬 蘇州臙脂 揚州粉 名勝案内 文昌閣 鈔関 揚州の名井 参考文献 【シリーズ】 【水都百景録】州府ガイド(1)徽州府 - 壺中天 【水都百景録】州府ガイド(2)蘇州府 - 壺中天 概要 揚州は作中に登場する町の中で唯一長江の北岸にあり、川を基準に考えると「江南」ではなく「淮南」の町である。 地図を見ると…
宝永4年6月28日。子半(午前0時)前須村の町屋3軒が消失する。清浄寺を南への突き当り、小社の側の小さな家であった。