わたなべ・つねお(1926-)
読売新聞グループ本社社長・主筆。読売巨人軍代表取締役会長。元横綱審議委員会委員。
1926年(大正15)年5月30日生まれ。東京都出身。
旧制東京高校→東京大学文学部哲学科卒。
大学時代は共産党に入党(ただし除名された)。
読売新聞社入社後、政治部記者(大野伴睦の番記者)で頭角をあらわす。
論説委員長になったときから現在まで、元旦の社説を自ら書いている。
中曽根康弘などとも親しく、読売新聞の社論を保守化させた。
第54回カンヌ国際広告祭で、「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞
通称・ナベツネ。本人はワタツネと呼ばれたいらしい。なお、正しくは渡邉恒雄である。
社長就任まで野球については全く知らなかったが、長嶋茂雄とは現役時代から面識があった。
歯に衣着せぬ発言は、時に暴言とも受け取られ様々な分野に波紋を広げた「名物オーナー」であった。
金権主義を振りかざし、少しでも自分に従わない球団や意見があった場合には、「巨人を中心とした1リーグ制を導入する」「(異論のあった球団を)リーグから追放する」などの恫喝まがいの発言を行ったことでも有名。
中でも、2003年の読売巨人軍原辰徳監督の泥沼交代劇を「単なる読売グループ内の人事異動だ」とあっさり発言したことには、巨人ファンのみならず、球界全体を巻き込んで大きな論争の種となった。
また、発言の矛先は球界だけではなく、角界等他種スポーツ界、更には同業他社のマスコミ各社に向けても遠慮なく向けられた。
2004年8月、新人選手のスカウトにおける金銭授受の判明により、巨人軍オーナーを辞任した。
2005年6月、読売巨人軍代表取締役会長に就任。球界復帰。辞任から復帰までの間、わずか10ヶ月。
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彼は就職先に中央公論社を第一希望としていたが、見事に落ち、それから数十年後同社が経営危機に陥った際、救済した。
その心中、得意満々たるものがあったであろう。この会社は現在は中央公論新社と社名変更している。