哲学者。1885年2月3日、東京生まれ。 東京大学数学科から哲学科に転じ、1908年卒業。 東北大学講師、京都大学助教授、同教授を歴任。 自然科学の哲学的基礎を築き、西田哲学の後継者として田辺哲学を樹立した。 西田幾多郎の「場所」に対して田辺は「主体」の哲学を唱えたところに特徴がある。 1962年4月29日没。
[主要著書]
黒田寛一の哲学をわがものに 5の1 探究派のブログに、「学習ノート 『歴史的現実』(田辺 元著) 黒田寛一「解説」を読んで」と題する、西知生が書いた黒田を批判した文章が載った。 この文章は探究派の「実践論」が黒田の実践論と全く別物である、ということを定式化したものとして記念碑的なものである。 私は、このことを明らかにし、彼らの黒田への批判の無意味性を確認して、以後関知しないこととする。 時間の無駄だ!! 1 無知、無内容、無節操 西は、冒頭にわざわざ佐藤優を引き合いに出し、「佐藤の田辺元の講義に対する怒りが、ほとばしり出ているではないか。私は、民主的キリスト教徒としての立場とはいえ、田辺を強く…
今年最大の、そして嬉しい発見は、「自分と同世代で出色の日本の数学者」の存在を知ったことだ。 「90年代ジャンプ」イズムとでも言えばいいのか、「すごい奴に出会いたい」という動機は未だに「生き」ていたのだ。 同世代の研究者については殆ど意識することはなかったのだが(初めて「少しだけ先を越された」と感じたのは成田悠輔だった)、これからもっと「面白い奴」は出てくるのではないか、という予感はある。そこへのワクワクがあるのだ。 その数学者は、自分とは全然別のアプローチから、自分とも共有できる部分の問題群やフレームワークを扱おうとしている。 (たぶんまだ、「成功」していると言えるほどの段階には至っていない)…
挿話の余話。 話を先取りしますが、先生の遺稿の中に、田辺元先生とのやり取りやソ連(ロシア)が交渉もできない相手であるなど短いエピソードがあったのですが、私は割愛しました。 そのことを今深く反省しています。 田辺先生については、先生とのやり取りの手紙もたくさんあったのに、田辺元全集の編集者から何の連絡もないままだと聞いていました。そして先生はご自分の全集を出すことを強く願っておられました。蔵書全部を寄付するから、全集を出してくれる大学はないだろうかと言ってもおられました。 私の口語訳とは別にやがて先生が望んでいたような形の本が『アリストテレスの倫理思想』として岩波書店から出たので、私自身の言葉で…
話が前後しますが、この直後に就職し先生から離れたため細々と口語訳だけ続けていた私に安藤先生は山田先生に会う機会を作ってくださいました。それが南山大学の山田ゼミにつながります。 話は変わりますが、山田先生はイタリアに留学しイタリア語もマスターされたと知りました。安藤先生は後年オックスフォードのロス教授・アクリル教授のもとに留学しました。服部先生も留学の時、同じ田辺元先生の学生ということもあり、安藤先生にオックスフォードでの経験を伺がったと、ずっとのちに聞いたことがあります。 安藤先生が翌昭和16年に就職されたのが四校、恩師西田幾多郎先生の前任校です。この時の学生である西義之氏の回想を挙げます。「…
先日東京古書会館の和洋会2日目では、1冊だけ購入。『自修会々報』創刊号(東北帝国大学理科大学自修会、大正4年4月*1)である。東北帝国大学理科大学の校友会自修会の会誌で、98頁。きたむら書店の出品で、1,000円だった。 古本市2日目の昼でも残っていたのは、パッと見、色気の無い無名の雑誌だからか。しかし、私は目次を見て日下部四郎太「南洋出張所感」が載っているのと、「国会図書館サーチ」で『自修会々報』はまったくヒットしないので購入。2号も出ていたが、創刊号のみとした。その後調べると、宮城県立図書館が『自修会報』13号(昭和2年*2)を持っていた。また、同サーチの対象外だが、東北大学史料館が『自修…
他方において、田辺元の批判を受けた西田もまた、「場所」における歴史行為について深めたのであろう。いわゆる「西田哲学における行為・制作の論」(黒田)に示されているように。 哲学することは、「ことばに担わされた概念」を用いて展開するほかはない。規定しようにも規定できないものを規定してしまうところに、西田の特色がある。それが彼の思索の最大の特徴である。それはたとえば「未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く同一で居る」「此の色、此音はなんであるという判断が加はらない前を言うのである」、と西田は「純粋経験」を説明している。そして、この「純粋経験」を事実や実在というものが与えられる最も直接的な「場所」…
安倍龍太郎さんと佐藤優さんの「対決!日本史5 ~第一次世界大戦編~」を読みまし た。すごく勉強になりました。 ■同盟の考え方の基本 同盟の考え方の基本は「我が国の後ろにはたくさんの国がついている。下手に手出ししたら世界大戦になるぞ」「同盟に手を出すリスクなんて誰も冒さない。同盟さえ結んでいれば戦争は起きず、平和が維持されるはずだ」という抑止の論理です。 二度の世界大戦を経て、人類は現在に至るまで軍事同盟によって戦争の抑止に努めてきました。 《略》 〇「核戦争にならない」という抑止は今のところ働いていますが、「西側諸国に核兵器があるからウクライナ戦争に巻き込まれない」という抑止力は働いていません…
明日放送🌅「#日本の青春」未ソフト化📀◆10/9(水)午後5時5分~ほか#遠藤周作 の小説「#どっこいショ」を#小林正樹 監督が映画化📽️戦争とは青春とは。戦中世代に思いを馳せる見所がある作品👤#藤田まこと #新珠三千代 #黒沢年男 #酒井和歌子 #田中邦衛https://t.co/miLdys0DGl pic.twitter.com/oiZyAwdenv — 日本映画専門チャンネル (@nihoneiga) October 8, 2024 1968年 日本 あらすじ 遠藤周作の小説「どっこいショ」を映画化したヒューマンドラマ。戦争中に上官から暴力を受けて耳が不自由になった男(藤田まこと)は、…
(PHOTO)gettyimages 明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。 「世界哲学」への道 写真:現代ビジネス 日本哲学の意義のひとつに、「世界哲学」への貢献ということが考えられるであろう。 そこで述べたように、「世界哲学」とはさまざまな哲学の営み…
彰太は東京育ちだが、横浜に引っ越すまでの10年は、大阪や福岡に住んでいた。彰太にとってこの西日本での生活はとても楽しくて有意義で、「東京に住んでいるより、大阪や福岡の方が遥かに人生を謳歌できる」と感じていた。特に彰太は、高校生の頃から京都に憧れていたので関西の文化には思い入れがあった。春子さんは名古屋産まれだから文化的には当然関西圏だろうと彰太は単純に考えて、ちょっと媚びる感じもあって、こんなメールを送った。 ーーーーーーーーーーーーーーー 東京都世田谷区で生まれ、大田区、中央区と移り住み、1971年に入学した高校は千代田区の国会議事堂の前。日本の文化の中心は東京だと信じていた。 ところが、高…
黒田寛一の哲学をわがものに 5の2 2 支離滅裂 西は、「田辺の時間論について」という章で黒田を批判している。その主張は、「時間論の展開は正当」という黒田は間違っている、とし①「二つの時間の流れ」を同列におけないこと、②未来という概念を実体化している、にもかかわらず「正当」というのは間違っている、と。 しかし、西が書いているこの批判は支離滅裂、読むに堪えない。 前提的に西は、唯物論とは何かということがわかっていない。「天空の運動の法則性」という事柄と「物質の主客の運動」「全宇宙史的物質の自己運動」ということを区別することなく、それぞれからつかみとられたのが時間という概念である、としている。これ…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年8月29日 YAHOO!JAPANニュース 京都新聞「「明らかにしたのは、私が初めてのはず」京都大研究者が明かす京都学派と戦後韓国の知られざる関係 「韓国とは何かを考えるために日本の思想を研究した」という郭さん(京都市左京区・京都大) 植民地主義のまっただ中にあった戦前日本とその隣の朝鮮は、思想的にどんな影響関係にあったのか-。振り返るには痛みが伴う歴史のテーマに、韓国出身で京都大講師の郭旻錫(カク・ミンソク)さんは真っ正面から取り組んでいる。戦時体制と関わった京都学派の…
3522日目 敗戦イベントのソの後 2024年8月17日6時土曜日 2024年 干支41 甲辰(乙・癸・戊)年 8 月 干支09 壬申(己・壬・庚)月 17 日 干支50 癸丑(癸・辛・己)日 ↓↑ 1929年火曜日から始まる平年 昭和4年 干支 己巳 皇紀 2589年 中華民国 18年 朝鮮 主体18年 1月31日 ヨシフ・スターリン レフ・トロツキーを国外追放 スターリン独裁体制 2月11日 パリでオーウェン・D・ヤングによる 最初のヤング委員会が開催 ヤング案(Young Plan) 第一次世界大戦後 敗戦国の賠償を緩和する新たな賠償方式 1924年成立の ドーズ案による ドイツの負担を…
* 西田幾多郎とは何者なのか 日本を代表する哲学者、西田幾多郎(1870年〜1945年)の前半生は意外と波乱に満ちたものとなっています。金沢の旧制四高をその校風に反発して中退した西田は、1894年に東京帝国大学の選科生(現代でいうところの聴講生)を修了後、しばらく地方の尋常中学や旧制高校の講師職を転々として、ようやく機縁を得て四高教授となりますが、その間、実生活において妻との離別、自身の病、娘の夭逝といった数々の受難が降り掛かります。そして1910年、40歳の時に京都帝国大学助教授へ唐突に抜擢された西田はその翌年、旧制高校での講義録をもとにした1冊の本を公刊します。これが後に日本哲学史に巨大な…
ちょっとした事情があって、西谷の公職追放解除に向けて田辺元やら天野貞祐やらが仕掛けていた運動の中身を調査。 意外と正攻法でやってんだな、 夜。なんとなくテレビつけてたら、マクドのCMでとても懐かしい曲が流れてくる。 なんとシングライクトーキングですか。 www.youtube.com 当時のわたしは中学生?
表紙帯「黄昏とともに羽ばたく梟にたとえられた哲学を〈歴史的現実の学〉たらしめた田辺元。されど〈種の論理〉をもつて現人神と大東亜共栄圏を根拠づけ、爾後に懺悔した悲劇の哲学者」 これは、こぶし書房から出版された田辺元著『歴史的現実』の表紙帯の一文である。この『歴史的現実』という論文は、田辺が、昭和十四年に京大生を前にして、学生を戦地に送るためになされた講義の速記を上梓したものである。 佐藤優はこれに対して、2015年に「二度と騙されないために」とこの著書の批判合宿講座を開いている。そしてこの合宿講座記録を「悪魔の京大講義」表題をつけ出版していた。 その表紙には次のように書かれている。「学生を戦地に…
学生を戦地へ送るには―田辺元「悪魔の京大講義」を読む― 作者:佐藤優 新潮社 Amazon はじめに:戦渦に消えた若者たち 太平洋戦争開戦前夜、京都大学の講堂には熱気に満ちた学生たちが集まっていました。 彼らの心を捉えていたのは、哲学者・田辺元による「悪魔の京大講義」。 国家のために命を捧げるよう熱弁する田辺の言葉は、若者たちの心に深く刻まれ、多くの学生が戦地へと赴くことになりました。 本書「学生を戦地へ送るには」は、この歴史的事実を掘り下げ、田辺の思想が若者に与えた影響を解き明かす書です。 著者の佐藤優氏は、田辺の思想の論理構造と心理的影響を分析し、その危険性を鋭く指摘しています。 (ads…
シンガポールのアーティスト、ホー・ツーニェン(Ho Tzu Nyen、1976生)の東京都現代美術館(MOT)での個展。映像インスタレーションで、時間帯によって異なる作品が上映されるため、なかなか一度で全容を捉えるのは難しい。会期中に二度足を運び、述べ7時間ほど滞在したが、結局見切れなかった。比較的映像展示をまとめて見やすい『ボイス・オブ・ヴォイド』も、VR鑑賞の予約が思った以上に取れず、逃してしまった。 以下、図録を参照しつつメモを残しておく。 CDOSEA(東南アジアの批評辞典)(2017-) 名のない人(2015、21分5秒) 名前(2015-17、16分51秒) ウタマ――歴史に現れた…
はじめに 私たちが民主主義を良いものとし、権威主義を嫌うようになった背景には、歴史的な経緯や教育、文化的な影響が大きく関与しています。この考え方の形成にはいくつかの重要な要因があります。 歴史的背景 1. 戦後の世界秩序: 第二次世界大戦後、アメリカを中心とした民主主義国家とソ連を中心とした共産主義国家の対立(冷戦)が始まりました。この時期、多くの西側諸国は民主主義を掲げ、自由や人権の重要性を強調しました。 2. 民主主義の成功事例: 西ヨーロッパやアメリカ、日本など、多くの民主主義国家が経済的な成功を収め、安定した社会を築いてきたことが、民主主義の優位性を示す一つの証拠とされました。 教育と…