町火消し

町火消し

(一般)
まちびけし

1970年(享保5年)8月7日、将軍徳川吉宗は町火消組の設置を命じました。

当時<、江戸は世界最大の大都市です。
「喧嘩と火事は江戸の華」
2〜3年に1度は大火が起こっていました。(90回以上の火事)
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、
当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災「明暦の大火(めいれきのたいか)」が起こる。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものである。
ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもある。

それまで、幕府直属若年寄配下の「定火消」や各藩配下の「大名火消」がありましたが、
処理能力の限界もあり、徳川吉宗の命により、1717年(享保3年)、南町奉行大岡越前守忠相が、
自衛「町火消し」を組織を発足させ、
2年後には江戸城下に「い組」「ろ組」「は組」いろは47組を編成し、
1970年(享保5年)8月7日、1組増やし48組の本格的な町火消し制度を発足させました。

隅田川以西の「いろは47組(後に本組を加えて48組)」と本所・深川の16組です。
「町火消し」は、出火地点の風下側の家を人海戦術で迅速に撤去し延焼を防ぎました。
その為、消火には多くの人員が必要で壊す作業に慣れた鳶(とび)が重用された。
所謂、建築知識能力のあるクラッシャー(破壊屋)

以下の様に、8番組に分けられており、更に都合組を分類でした。
なお「いろは」の中で、ひ・へ・ら・んの4つはなく代わりに百千万本があります。

  1番組… い・は・に・よ・万
  2番組… 百・千・ろ・め・も・せ・す
  3番組… て・あ・さ・き・ゆ・み・本
  5番組… く・や・ま・け・ふ・こ・え・し・ゑ
  6番組… な・む・う・ゐ・の・お
  8番組… ほ・わ・か・た
  9番組… れ・そ・つ・ね
  10番組… と・ち・り・ぬ・る・を

1番組には「い組」、「は組」、「に組」、「よ組」、「万組」があり、
浅草橋、筋違橋川端より飯田町、小川町、神田権現をへて呉服橋までの堀端。
呉服橋一丁目、四日市、江戸橋より大川橋通り、両国川通りまで。を担当したようです。
「は組」は大伝馬町、亀井町、難波町、堺町、小網町、小舟町等、四十六町半を受け持つ組。
「へ組」の担当区域は芝・高輪・泉岳寺あたり、「ら組」は四谷の箪笥町・伊賀町・寺社門前町周辺、
「ひ組」の受け持ちは青山・七軒町・大工町界隈だった。
「一組」から「八組」までは本所や深川、亀戸などの墨東エリアだけれど、残りの組(飛び番で「四十四組」まであった)は小石川や谷中、牛込、市ヶ谷、渋谷などの乃手地区あるいは場末(ばすえ=江戸期は“郊外”の意)、寺社門前町などの受け持ちだ。

★【一番人気は「よ組」】
メンコの中でも見かけるのは、この「よ組」のものがほとんどです。
江戸の子供達に凄い人気があったということが想像できます。
纏(まとい)のデザインは、神田の「田」の字からきているそうです。
1番組よ組は、町火消しの中でも最大の人足数(700名以上)を数え人気も最高でした。
担当は神田明神下界隈。

★【迅速・いの一番の「い組」】
神田明神下の“いの一番”だった「い組」の威容。薩長軍が上野山へ火を付けたとき、
駆けつけた江戸じゅうの町火消しと対峙してにらみ合い、一触即発状態になった話は有名だ。
深川担当。人足数(500名前後)。

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※特に、「め組」が有名になったのは、江戸時代の文化2年(1805年)に起きた「め組の喧嘩」。
当時、境内で行われていた相撲の取り組みに出場していた力士と、地元の火消し「め組」の消防士たちが、
ささいなことから大喧嘩になったこの事件は、江戸っ子の間で語り継がれ、後の歌舞伎「神明恵和合取組(かみめぐみわごうのとりくみ)」となりました。
この歌舞伎が評判を呼んだので有名になった。実際人気はあるほうでしたが江戸一番では無い。
港区芝大門にある“芝神明のだらだら祭り”で名高い「芝大神宮」には、この「め組」の半鐘が祀られています。
江戸時代の芝大神宮の境内には相撲・芝居小屋などがあり、庶民の憩いの場として親しまれました。
人足数は239名。受持区域/桜田久保町・兼房町・二葉町・源助町・露月町・神明町・増上寺中門前辺・浜松町・芝口辺・烏森町・南佐久間町 。

※また、「ねずみ小僧次郎吉」は、浅草の芝居小屋の木戸番の子に生まれ、身が軽いところから町火消しの人足になった。ばくちが好きで親の勘当を受け、刺青をされて諸国を歩いた後、江戸に戻って泥棒となり、天保三年に37歳で捕らわれ、鈴が森で死罪。