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百済

(地理)
くだら

百済(346〜660) 今の全羅北道、全羅南道に有った国。姓は扶余。
日本では慣用的にはくだらと呼ばれている。日本に来た百済渡来人が自国をクンナラと呼んでいたためそれがなまったと言う説があるが信憑性は低い。韓国ではペクチェと呼ぶ。神話上の建国年はBC18年に成っているが、歴史的には346年を建国年としている。

建国神話では、高句麗始祖の朱蒙の息子が建国した事になっている。高句麗は扶余族である為、扶余姓を名乗ったと思われる。馬韓の伯済国が馬韓地方を統一した国家とされている。別説では扶余系の百済貴族の下に庶民(馬韓人)が居る二重民族構造の征服国家とするものもある。

日本との関係は比較的良好であり、文化的交流や交易が頻繁に行われており、百済の危機の時には援軍を送ったり、領土の割譲をしたりしている。日本書紀によれば継体天皇六年=512年頃(百済本紀に当てはめると武寧王12年=511年頃)に任那四県を百済に割譲したと言う記録がある。

百済は475年前後に高句麗に当時の都の漢城(ソウル)を占領されている。その後、熊津に遷都した。このとき百済は一度滅び、武寧王の即位(501)で復活したと言う学説がある。

660年唐と新羅の連合軍に滅ぼされる。百済再興を期して、日本の援軍と共に唐と新羅の連合軍と白村江の戦い(中国側の記述では白江)663年に行われるが内紛により敗北する。このとき、百済王族は日本に亡命し、これら日本に亡命した百済王族の末裔は百済王(くだらのこにしき)氏と呼ばれていた。日本では天智天皇の時代はまだ百済再興をあきらめてなかったようである。天武天皇の時代には再興勢力は下火になる。

また、2004年03月18日に、日本国内で亡命百済王族に交野郡(大阪府枚方市内)の郡造をまかせたと言う証拠が発掘されたと言う発表があった。

旧百済地域である全羅道は歴史的に冷遇されており、旧新羅地域との対立が激しい。今も大統領選の得票にそれが如実に現れている。


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