俳句を詠むに意味で読まないこと 児 島 庸 晃 目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろうか。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。俳句が説明になってしまう理由でもある。私の二〇代初めの頃、映画の世界にヌーベルバーグ(新しい波)と言う新しい表現の実感直感のフランス映画が、日本の若者の心を捉えていた。その代表的映…