疑うことは、偽りを信じないために大切なことです。疑いが生じたときは、疑いを放置していると疑いに取り込まれてしまうので、きちんと対処することが必要となります。 私にとって疑いに対する一つの対処法は、自分が信仰者として歩んできた歩みを考えることです。自分はクリスチャンとして長年生きてきました。信仰の歩みをしてきました。疑うとは、これまでの信仰の歩みが意味がなかったと評価することになります。これは自分の人生を否定することになります。人生を無駄に生きてきたと認めることになります。キリスト者という自分のアイデンティティーを否定することになります。これはなかなか耐えがたいことです。それゆえ、疑いを捨てます…