前回についてちょっと補足したい。それは「満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)、さらに沙門壹隻眼(しゃもんいしゃくげん)の開明なるに、不是目前法なり、不是目前事(ふしもくぜんじ)なり」の箇所だ。 満眼聞声(まんげんもんしょう)、満耳見色(まんにけんしき)について、岩波文庫の脚注には「声を聞くのは耳だけではなく、色を見るのも目だけではない。全身心のはたらきである」とされている。そのとおりだと思う。 私なりに思っていることを書いてみる。坐禅していると、自分が大宇宙の中にいる、自分は大宇宙の一部だと感じることがある。大宇宙の一部が人間という形をとっている、と言ってもいいかもしれな…