中国で行われていた公務員採用資格試験。隋の時代に始まり、唐代・宋代でほぼ完成。以後、清帝国末期に廃止されるまで、(元代の中断を除き)千年以上も行われた。
国家運営に必要な人材の確保はどの国でも重要事項であり、広大な中華帝国においてもそれは例外ではない。郷挙里選であるとか九品中正であるとかはその一つであったが、これらはいずれも推薦制度であり、つまりは(能力ではなく)コネとか家門とか門閥とかの方向に進みがちなバイアスを内包していた。
そこで、隋の高祖・楊堅*1は試験によって人材を得る科挙制度を創設した。
続く唐帝国の時代に科挙制度は整備された。大雑把に言って、
という流れになっていた。実際には試験合格=官僚になる資格を得る、であって、その後の任用試験を通らないと採用はされなかった)
宋代にはさらに最終試験として、皇帝臨席の元に行われる最終試験「殿試」が追加され*2、また、科目も整理されてほぼ完成に至った。
伝統的に商工業が軽んじられる儒教的な文化風土を持ち、かつ、宋代以降の文治主義の確立した中華帝国にあっては、科挙こそが立身出世の第一の道であり、このため現代の受験も遠く及ばぬほどの重みを持っていた。出題内容が古典に偏っていたため、学問全体が(悪い意味での)訓詁学的な方向に偏りがちとなり、結果的には学問の停滞を招いたとも言える。最終的には清帝国末期の1905年に廃止された。