大正期から昭和戦前期にかけて大阪で雑誌『雑草苑』などを刊行した池田威という人物がいた。富士正晴『竹内勝太郎の形成』(未来社、昭和52年1月)には、昭和6年8月6日消印の竹内宛石橋和書簡と同月30日付け竹内宛池田書簡などが載っている*1。富士は、石橋と池田は同一人物とし、後者の封筒が朝日会館のものであることから、池田は朝日会館勤務の大阪朝日新聞記者であろうとした。しかし、その記述に続いて「〔石橋は池田のペンネーム[。]『雑草苑』『演劇ウイークリー』など出し、朝日の企画部長と組んで狂言研究会をやった。朝日の記者ではなくて、阪急にいたらしい。ーー天野隆一〕」とある。雑誌への連載後単行本化に際して富士…