さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転。) その成立はいつなのだろうか。鎌倉時代の絵巻物「天狗草紙」の中で、その存在が既に示唆されている。しかし、源流はもっと昔まで遡ることができるようだ。実は中世における天部の範囲は、860年に藤原良相が居宅のない一族の子女のために設置した「崇親院」の所領の範囲と、ほぼ重なっていることが研究により分かっているのだ。その範囲は今で言うと、南北は四条通りと仏光寺通り、…