耳川の戦い(みみがわのたたかい)
1578年、日向高城川原で起った大友宗麟軍と島津義久軍との間の合戦。大友宗麟は九州最大の敵島津氏を討つべく日向への侵攻を開始、小丸川を挟んで対陣した。結果、大友勢は総崩れとなり本国豊後へ敗走したが、耳川の河畔で追撃され大敗。島津氏は日向を支配下に納め、肥後方面へ北上、勢力を拡大した。大友氏の衰退により竜造寺隆信が台頭、九州の覇者を賭けて竜造寺氏と島津氏とが激突することになる。
島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降した…
破天の剣【電子書籍】[ 天野純希 ]価格: 858 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 島津貴久の四男として生まれた家久は、兄3人の武将らしい性格と反対に、口下手で何をやっても飽きやすい性格で字も満足に書けない。母が兄3人とは違うこともあり、軽んじて見られていた。しかし島津家中興の立役者、祖父忠良はそんな家久を「軍法戦術に妙を得たり」と見ていた。戦術を語り始めるとロは止まらず、皆も驚くほどの意見を述べ、15歳の初陣では敵将を討ち取る手柄を立てる。 長兄の義久が家督を継ぐと、島津家悲願の三州(薩摩、大隅、日向)制覇を成し遂げるために、兄弟で力を合わせて隣国を攻めて行く。次兄の義弘が先頭に立ち軍勢を…
ここから戦国時代に入ります。このくくりだけでなく、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、そして「三英傑」を絡めて数多くの戦国武将を主人公として作品を取り上げていきます。それは日本史上珍しい「力」が支配する時代。人が生きるために遠慮や忖度は邪魔にしかならず、目的を明確にした「合理的な思考」が幅を利かせる時代でした。小説で取り上げる題材もまた数多くあります。 そしてしばらくは「地方分権」の時代が続きます。まるで甲子園の地方予選のように、町や村の勢力が勝ち負けを繰り返し、やがて地区代表たる戦国武将たちが各地でのし上がることになります。その後勝ち抜いた武将たちは三英傑と「全国大会」を繰り広げることになりま…
天正6年(1578年)から天正15年(1587年)にかけて、九州の情勢は大きく動く。その中での島津義弘(しまづよしひろ)の戦いぶりをたどる。 九州では島津・大友(おおとも)・龍造寺(りゅうぞうじ)の3つの勢力がしのぎを削る。島津氏はこの争いを制し、九州全土に勢力を広げていくことになる。だが、天下人の豊臣秀吉が九州の争いに介入。大軍を送り込んでくる……。 なお、日付については旧暦で記す。また、名乗りは時期によって「島津忠平(ただひら)」「島津義珍(よしまさ)」「島津義弘」と変わっていく。 島津氏の三州統一まで 高城川の戦い(耳川の戦い) 肥後攻略 佐敷の戦い 水俣城攻め 沖田畷の戦い 大友が動く…
天正6年(1578年)、島津(しまづ)と大友(おおとも)がぶつかった! 場所は日向国の高城川原(たかじょうがわら)。現在の宮崎県児湯郡木城町高城の一帯である。両軍ともに数万の兵を動員する大合戦。「高城川の戦い」「高城川原の戦い」「高城合戦」、あるいは「耳川(みみかわ)の戦い」と呼ばれている。 当初は大友方のほうが優勢だった。しかし、結末は島津方の大勝。勝敗を決めたのが、新納院高城(にいろいんたかじょう)を死守したことにあるのだ。 この城をのぼる。 高城川の戦い(耳川の戦い) 7つの空堀を越えて 新納院高城の歴史 城主の山田有信とは 豊臣軍も高城を落とせず (adsbygoogle = wind…
天正5年12月(1578年1月)、島津義久(しまづよしひさ)は伊東義祐(いとうよしすけ)との戦いを制し、日向国(現在の宮崎県)を支配下においた。島津義久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護である。名実ともに「三州の太守」となったのである。 一方で、島津氏の勢力拡大に警戒を強める者も。豊後国・豊前国(現在の大分県)をはじめ北九州の覇権を握る大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)である。 伊東義祐は島津氏に攻められて逃亡(伊東崩れ)。大友氏を頼り、豊後国へと身を寄せる。そして、日向奪還の援助を求めた。大友氏は島津氏が奪ったばかりの日向国に侵攻してくる。そして、両者は激突するのである。 rek…
天正6年(1578年)、日向国の高城川原(たかじょうがわら、宮崎県児湯郡木城町)で大友宗麟(おおともそうりん、大友義鎮、よししげ)と島津義久(しまづよしひさ)が激突した。結果は、島津勢が大勝する。大友勢は敗走し、追撃を受けて耳川(みみかわ、宮崎県日向市を流れる)付近で多数の戦死者を出した。 戦国時代の九州の趨勢を決めた大合戦である。「高城川の戦い」「高城川合戦」または「耳川の戦い」と呼ばれている。なお、高城川というのは現在の小丸川(おまるがわ)のこと。かつては「高城」の近くを流れることにちなんで「高城川」と呼ばれていた。 rekishikomugae.net 『完訳フロイス日本史7 宗麟の改宗…
戦国時代後期の九州は島津氏が席巻する。その過程で戦功を挙げまっくたのが島津家久(しまづいえひさ)である。島津四兄弟の末っ子だ。 四兄弟の中でもっとも知名度が高いのは、次男の島津義弘(よしひろ)だ。猛将としてよく知られている。かたや島津家久のほうは「戦国時代が好きな人は知っている」くらいの知名度だろうか。だが、戦場での強さは兄にも引けをとらない。むしろ上回っているかも!? 『破天の剣』は島津家久の生涯を描いた小説だ。2012年に刊行され、2015年には文庫版も発売されている。評判も良いようなので、読んでみることにした。 破天の剣 (時代小説文庫) 作者:天野純希 角川春樹事務所 Amazon 作…
こんばんは!かるぅです。 いつも閲覧いただきありがとうございます😊 今日も大学の授業なのですが、2限目は別の用事で参加しませんでした。 特別な用事かと思えば、実は私用です(笑) 美容院に行ってきました。 来週は模擬授業や介護等体験が重なっており、どうしても都合がつかないので今日行くしかなかった! しかし、一つ予想外なことが。 授業内容を聞こうと思っていた友達も、ネイルしに出かけていたのです(笑) やってしまいましたね。 まぁ、なんとかレジュメ見て勉強したいと思います。 夕方には、また他の班の発表を評価しました。 オンラインと対面が同時だとやりにくいなぁというのがありますね。 国も大学も、曖昧な…
ふと 誰か(主に私のみ)が思った このゲームを別のシステムでやったらどうなるか 『ヒストリカル』ウォーゲームでは、大体史実通りの展開になれば、「シミュレーション性が高い」とか「歴史再現性が高い」と言われます。でも、本当にそうでしょうか。 例えば、戦国時代、総大将が乗馬して突撃を叫びます。配下の兵士たちが駆けだします。総大将も駆けだしますが、途端に馬が石に躓いて転びます。そのあおりで総大将が落馬し、首の骨を折って死亡。部隊はチリヂリになってしまいました。 そんなゲームをデザインしようとした時、あなたはどうしますか? そんなことはあり得ない、でしょうか。 上記の例は、実際に起こったことではありませ…
3月9日(土)より、川の駅船小屋 恋ぼたるにおいて犬塚城・筑後海津城・城島城・生津城の御城印が発売されます。 販売開始日:2024年3月9日(土) 販売価格:各400円(税込) 販売場所:川の駅船小屋 恋ぼたる collection.kojodan.jp 群馬御城印プロジェクトの吉澤さんからコメントをいただけたのでご紹介します。 吉澤さんからのメッセージ 九州筑後に新しい御城印が登場します。 犬塚城 筑後犬塚城の築城は定かではございませんが、応仁の乱(1467年)の頃に鎮西探題渋川教直によって築かれたと言われております。だが延徳三年に渋川氏は少弐氏と大友氏に攻められると犬塚城は落城してしまう。…
2024 年 2 月 9 日( 金 ) 戦国IXA 新たなる舞台が開幕・・・! 流天絶花 ~ 静謐の争奪 ~ ↓↓ 新たなる舞台の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/season27_wagahana/ 新たなる舞台では 新【 傑 】武将カードとして 室町幕府 最後の将軍が登場するもく!!!! そして 大殿ならびに 新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!! ↓↓ 【傑】 の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/new_rarity/ 足利義昭 さんは、室町幕府の第十五代、そして最後の将軍もく 第十二代将軍・義晴さんの…
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小…
島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。 島津と大友の微妙な関係 天正14年の九州の勢力図 島津の両殿体制、そして日向の末弟 島津と毛利 豊臣秀吉の惣無事令 戦を急ぎたい島津家臣団 豊後攻めが決まるが…… 筑前へ出陣 勝尾城の戦い 岩屋城の戦い…
こんにちは のろしですもく (・ε・)ノ 戦国IXAでは 「 今後の統合計画とワールド再編成計画 」や https://sengokuixa.jp/2023_24_schedule/ 「 2024年2月の新章突入までの各種日程について 」が発表され https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n658d29991375e 来期のことが気になる今日このごろですが そのまえに2024年1月も 戦国IXAに 新しい武将たちが登場もく 1月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】 東向殿さん 浅井亮政さん 支倉常長さん 長谷川等伯さん 【 …
天正14年(1586年)から翌年にかけて、九州の情勢は大きく動く。島津氏は大友氏領内へ侵攻。大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)の制圧を目指した。この争いに豊臣秀吉が介入。大友氏の救援要請を受けて、大軍を九州に送り込んでくる。 この一連の攻防は「豊薩合戦」とも呼ばれている。その様子はイエズス会宣教師のルイス・フロイスがまとめた『日本史』に詳しい。もちろんすべてが正確とは言えないところもあるが、同時代を生きた人物が記した貴重な史料である。 完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3) (中公文庫) 作者:ルイス フロイス 中央公論新社 Amazon こちらの『完訳フロ…
日向国の都城盆地の一帯は昔から「庄内(しょうない)」「荘内」と呼ばれている。これは「島津荘(しまづのしょう)のうち」を意味する。そして、宮崎県都城市に「庄内町」というところがある。 この庄内町に山城跡がある。安永城(やすながじょう)という。別名に鶴翼城とも。 都城盆地は14世紀から島津一族の北郷(ほんごう)氏が長きにわたって治めた。北郷氏は17世紀に名乗りを「島津」に復し、「都城島津氏」「都城島津氏」とも呼ばれている。 安永城は、北郷氏が拠点とした城でもある。 北郷氏と安永城 気軽に山城の雰囲気を感じられる 北郷忠相が巻き返す 北郷相久の自害 庄内の乱 (adsbygoogle = windo…
* 武士道 鍋島直茂【電子書籍】[ 近衛龍春 ]価格: 946 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 1538年、鍋島清房の次男に信生(後の直茂)は、寺で修行をしつつも武士として活躍することを夢見ていたが、領主の龍造寺隆信が寺に来た折に目を付けられて、隆信の近習に引き上げられる。龍造寺家は当時大友家から攻められて一時肥前から勢力が一掃されて、隆信が盛り返そうとしていた矢先だった。そして鍋島家は父清房と長男信房が、その柱石として支えていた。 初陣で活躍したあとも直茂は近習として働き、周囲の豪族に対して権謀術数を用いて徐々に龍造寺家の勢力を広げていく。隣国の強敵、大友軍と争った1570年の今山の戦いで…
同人会 ルーデンス・ファベル(Ludens-faber)さんの戦国フォリオシリーズ①『山崎の戦い』をソロ・プレイした。 haruichiban0707.hatenablog.com その時に気づいた不明確だったルールを、同人会 ルーデンス・ファベル(Ludens-faber)さんに質問した。質問のベースになったのは共通ルールVer.2.0だ。 その回答が来たので、記載しておく。 とても真摯で、ルールの背景説明もあり、わかりやすい回答だった。 ■質問1) 戦闘時、防御側に非混乱ユニットと混乱ユニットがスタックしているとき、混乱ユニットの戦力値は防御側の戦力に加えるのでしょうか? 11.1に「敵の…
島津家の「小返しの五本鑓」について、紹介してみる。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。徳川家康が率いる東軍が、反徳川方の西軍を破る。 島津義弘(しまづよしひろ)は西軍に参加し、敗軍の将となる。戦況が決したとき、島津義弘の部隊は戦場の真っただ中にあった。島津隊は前方に向かって退却を敢行。徳川家康本陣の前をかすめ、激しい追撃を振り切り、戦場を離脱した。「島津の退き口」である。 徳川方の猛追を撃退した5人の将があった。撤退戦(島津の退き口)の殊勲者として「小返しの五本鑓」と讃えられる。 その顔ぶれはつぎのとおり。 川上忠兄(かわかみだだえ)・川上久…
もし、織田信長が秀吉・家康より長生きしていたら? もし織田信長秀吉家康より長生きしていたら皆さんこんにちは今回の歴史じっくり機構はもし織田信長秀吉家康より長生きしていたらについて紹介していこうと思います天正10年1582年本能寺において明智光秀の襲撃を受け織田信長は天下統一目前でこのよう去ります49年の生涯でしたちなみに秀吉は3つ年下家康はさらに8つ年下となりますがもし信長が彼らより長生きしていたなら一体日本はどのような歴史をたどるのでしょうか天下統一を果たして安定政権を築くそれとも大きな波乱があってピンチを迎えるのか今回もリフストーリーとしてお楽しみいただければと思います信長が生き延びるには…
戦国武将の相関図を作成しました。 戦国時代は応仁の乱〜大坂夏の陣までの約150年間と長期に渡るため、勢力図も変わって行きますが、上記図解は桶狭間の戦い(織田信長vs今川義元)らへんの勢力図です。 ■目次 ■人物紹介上杉謙信武田信玄北条氏康今川義元織田信長長宗我部国親毛利元就大友宗麟島津義久徳川家康足利義昭 ■年表 ■使用素材について ■人物紹介 上杉謙信 戦国時代最強を謳われた越後国(新潟)を支配した武将。武田信玄と川中島の戦いを契機に12年間、5回の戦いを行うも決着がつかなかった。毘沙門天を崇拝している。敵である海無し県民の武田に塩を送ってあげた優しいエピソードがある。(商売だった説の方が高…
薩州家(さっしゅうけ)は島津氏の分家の一つ。薩摩国に広大な所領を有し、本宗家にあたる奥州家(おうしゅうけ)から頼りにされた。あるいは、本家をおびやかす存在でもあった。 16世紀前半の島津氏では一族どうしで覇権を争った。守護家の地位を離すまいとする奥州家の島津勝久(かつひさ)と、分家の薩州家と相州家(そうしゅうけ)による三つ巴の争いである。 一時は薩州家の島津実久(さねひさ)が国政を担った(島津氏の当主になったとも)ものの、この抗争は最終的に相州家の島津忠良(ただよし)・島津貴久(たかひさ)が制した。 rekishikomugae.net 敗れた薩州家はどうなったのか? 本領の薩摩国出水(鹿児島…