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脱構築

(一般)
だつこうちく

デリダの用語。テクストがAという真理を伝えようとする時、Bという反論が必ずその中に含まれているとする論証。ロゴス中心主義への批判から生まれた。ディコンストラクション(deconstruction)。

「哲学を<脱構築>するとは,歴史的由来をもって構造化されている哲学的諸概念を用いて最も忠実かつ内在的に仕事をしながら,他方では哲学では名づけることも記述することもできないある外部の視座にたって,この哲学的諸概念の歴史が,利益がらみの抑圧をすることによってみずから歴史たらしめたさいに隠蔽しあるいは排除してきたものは何か,それを見きわめることである」(デリダ『ポジシオン』

http://www.jagat.or.jp/column/comentry/waku_7.htm

[脱構築の一般的定義](『フランス哲学・思想事典』弘文堂 1999年)

「形而上学の脱構築(deconstruction)とは、ハイデガーの『存在論の歴史の解体(Abbau, Destruktion)』に示唆を受けたモチーフである。」

「脱構築」の実践とは、「形而上学的諸概念の階層秩序的二項対立の解体作業として整理できる。・・・階層秩序的二項対立に対して、脱構築は一般に、劣位におかれたものが何らかの形で、優位におかれたものの可能性の条件にかかわっていることを示し、両者の境界線が厳密には決定不可能であることを暴露することによって、規制の価値序列とは別の関係、別の〈他者との関係〉の可能性を開こうとする。」

http://grigori.sytes.net/socio/004.html

次に、ややデリダから離れ一般的になっていった(二義的かつやや年表的な)定義:

脱構築。この語を歴史的に定義するならば・・・まず、構造主義に先駆け先行した思考の態度に、いわゆる実存主義があった。これは第2次世界大戦後、フランス地方ではやったもので、いろいろたいへんなことばかりだし(戦時下にはドイツにも踏み込まれたし、戦後はその対独協力関連そのほかでいろいろと)辛いことも多いし、そもそも生きるってことはたいへんだけれど、それでも、考えてみれば、生きてるだけでまる儲けではないか、まず、じぶんがいま・ここに存在し、思考をおこなっている・・・そこから考えをはじめようじゃないか、という考え方を育てた。

で、構造主義は、そこに宿る思想の主観性を批判し、自意識を括弧にくくり、真に社会科学(=サイエンス)たる思考として、客観性を求めた。

さて、ようやく脱構築の(二義的な)定義だが、脱構築とは、この構造主義な思考およびその産物を、つねに変更可能な複数のパラメータの集合、そしてそれはもちろん読み直し・書き直し・作り直しが可能なものであるとみなした。

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