Anglo-Dutch War
17世紀中葉〜後期にかけて3次にわたり行われたイングランドとオランダの間の戦争の総称。
発端は、イングランドの国力伸張を図るクロムウェルが、中継貿易で栄えるオランダへの対抗と自国による植民地貿易の掌握のために、航海条例(航海法)を発布したことである。
1652年5月13日に、オランダ艦隊がイングランド艦隊への敬礼を拒んだことをきっかけとして開戦。
数次の海戦の結果、オランダは英仏海峡の制海権を失い国家の生命線たる商船隊にも打撃を受けた。直接的な商船隊の損害はともかく、オランダの沿岸が封鎖されて貿易が停止すると貿易立国オランダは国家として生存できない。とはいうものの、同じ新教国と長期間争うのはイングランドも好むところではなく、1654年4月5日にウェストミンスター条約が調印された。オランダはイングランドの航海条例を承認することとなった。
1664年、北米のオランダ領ニューアムステルダム(のちのニューヨーク)が王政復古後のイングランドによって占領された。さらに1665年にイングランドはオランダへと正式に宣戦を布告。
が、ホラント州法律顧問(実質的なネーデルラント連邦共和国首相)ヤン・デ・ウィッテの指導の下、オランダは艦隊の再建に成功していた。1665年6月のローストフトの海戦ではヨーク公(のちのジェームズ2世)率いるイングランド艦隊が、オランダ艦隊を撃破して司令長官のオプダムをも戦死させたが、結果として名提督デ・ロイテルがオランダ艦隊を率いるようになってしまう。1666年の4日間海戦ではそのデ・ロイテル率いるオランダ艦隊が勝利を収める。
その後、海上の戦況とは無関係に、ペストの流行(1665年)やロンドン大火(1666年)が原因でイングランドの経済は崩壊寸前となり、艦隊を活動させるのも困難になってしまう。ヤン・デ・ウィッテはここで、構想1年の大計画、チャタム軍港襲撃を実施に移す。
1667年6月、デ・ロイテル率いるオランダ艦隊が攻勢に出る。ファン・ヘンド提督の襲撃艦隊はメドウェー川を遡行、警戒線を突破してチャタム軍港に到達。5隻を撃沈、2隻を捕獲(うち1隻はイングランド海軍旗艦ロイヤル・チャールズ)するという大戦果を上げて帰還した。
が、フランス軍がスペイン領ネーデルラント(のちのベルギー)へと侵攻を開始したことで情勢は一変、オランダは北米のニューアムステルダムを正式に放棄する一方で航海条例を一部緩和させ、南米ギアナを獲得する、という条件でブレダ条約を結んだ。
昨日の敵は今日の友。ヤン・デ・ウィッテは英瑞と同盟を結ぶとフランスを撤兵させた。オランダにとって、南部ネーデルラントが大国フランスの直接のコントロール下に入ることは安全保障上の一大事であるから無理からぬところである。
が、「同盟国」であるオランダの「裏切り行為」に怒ったルイ14世は、1670年に英王チャールズ2世と「ドーヴァーの密約」を結び、共同の対オランダ戦争を約した。ルイ14世はさらに外交努力によってオランダの孤立化に成功する。オランダの外交努力もむなしく、戦争は目前に迫っていた。
1672年3月、まずイングランドがオランダに宣戦布告。つづいてフランスも4月6日に宣戦を布告して陸戦(オランダ戦争)が始まった。オランダ軍に数倍するフランス軍はたちまちオランダ国内深くに侵攻する。この危機に、オランダ側は最後の武器として堤防を切って洪水を起こしてその進撃を辛うじて食い止めた。
一方海上でもコルベールの建設した巨大なフランス海軍がイングランド海軍と共同する構えを見せた。が、6月のソール湾沖海戦ではデ・ロイテル率いるオランダ艦隊が奮戦、フランス艦隊の戦線離脱などを引き起こさせて勝利した。
このころ、ネーデルラント連邦共和国の政治的宿業とも言うべきホラント州議会(大商人基盤の分権主義)とオラニエ家(総督家を中心とする集権主義)の間の分裂が噴出、暴動が発生してオラニエ家のウィレム3世が総督に就任する。一方、ヤン・デ・ウィッテは辞任に追い込まれ、さらに暴徒によって殺害されるという事態に。
が、若き総督ウィレム3世は断固として抗戦を続ける覚悟を持っていた。フランス艦隊の消極性に助けられてオランダ艦隊は互角以上の戦いを続け、また、ニューアムステルダム(ニューヨーク)の奪回にも成功する。さらに外交努力によって神聖ローマ帝国などを対仏戦争に引き込むことに成功する。
イングランド側にしても、もともとルイ14世の口車に乗って始めただけの戦争であり、かつフランス艦隊の消極性に振り回されて海上で優位をとれたわけでもなかった。そもそもフランスは旧教国であり、英仏海峡を隔てた隣国であって、その勢力の伸張はエリザベス以来の勢力均衡政策にも反する。
結果として、1674年2月、ウエストミンスター条約が締結されて英蘭戦争は終了した。
その後、南部ネーデルラントに戦場を移し、オランダはなおもフランス相手の戦争を継続する。プロイセン(ブランデンブルク)やドイツ諸邦、スペインらと同盟したオランダはフランスを包囲する形となる。さらに英蘭の関係は修復され、1677年にはヨーク公ジェームズ(チャールズ2世の弟で後のジェームズ2世)の長女メアリーとウィレム3世の婚姻が成立。ようやく、1678年になってナイメーヘン条約が結ばれて戦争は終結した。