(1897年4月28日 - 1986年10月22日、元の名は宜偉、字は滄白) 中華人民共和国の軍人、政治家。中国人民解放軍の創立者の一人で、中華人民共和国元帥。国防部長や全国人民代表大会常務委員会委員長、中国共産党中央軍事委員会副主席兼秘書長、中国共産党中央委員会副主席などの要職を歴任。また、1975年1月から1983年6月の間は全人代常務委員会が国家元首の権能を果たしていたので、全人代常務委員長として在任中、彼が中華人民共和国の国家元首格であった。
スティルウェル召喚のあとを、アルバート・ウェデマイヤー将軍がついだとき、アメリカの対中華政策が変わってきた。蒋介石と国民党右翼にとっては青信号が出たのである。『ニューヨーク・タイムズ』特派員のブルックス・アトキンソンがいっているとおり、アメリカはこの時以来、腐敗した瀕死の政権を支持することになった。そしてその時から内戦は不可避になった。 朱徳将軍の参謀長葉剣英は、外国人記者とアメリカ軍事視察団に、八路軍と新四軍の戦闘記録の報告書を提示した。そのうちの一章は、1940年秋以後に日本軍に寝がえった国民党軍のことをとりあげていた。1944年半ばまでに、少将以上の国民党将校67人が、部隊をひきいて日本…
そうした事情や過去の歴史的理由からみて、朱将軍もほかの共産主義者たちも、この大戦は民主主義のための戦いであるという西欧列強の宣伝を、そのままのみこみはしなかった。ともかく、彼らは1940年まで日本に戦略資材を売っていたではないか。しかし最後には、好むと好まざるにかかわらず、西欧列強はファシズムと戦うことを強いられるだろうと朱将軍はずっと以前から確信していた。 彼はまた、この反ファシズム戦争の過程で、連合諸国の人民は政府にせまって、民主主義的宣伝の少なくとも一部だけでも実行させるだろうということ、そしてまた枢軸ブロックの敗北は、世界各地のファシズムに致命傷を与えるだろうということ、を信じていた。…
「われわれ後続部隊は、その日から翌日にかけて、ぞくぞく寛田に到着した。私は、朱徳将軍と周恩来が、総指令部の人たちといっしょに乗り込んでくるのを見た。毛沢東と中央委員会が、それに続いた。毛はやせて弱々しそうだった。 「15日の日没、われわれは西南に向かって山路をたどりはじめた。行軍序列は朱徳将軍から発令された。第一隊は朱将軍司令部の参謀長葉剣英の指揮下にある、紅軍大学の連隊だった。総司令部、革命軍事委員会、党中央委員会がこれにつづいた。つぎにソビエト政府、党、共産青年同盟の要員と反帝同盟の一部がゆき、それにつづいて補給部、われわれの兵器廠部隊、印刷機械や材料をかついだ印刷担任者たち、政府造幣廠、…
朱徳軍の救援にきた農民たちは、いくつかの大隊に編成された。自発的に担架輸送隊をつくりあげた5百人の女たちは、戦場の片付けに活躍した。彼女たちは、戦闘の最中も少しも恐れることなく働き、負傷者を背後の村々にはこんだ。そこにはさらに別の担架隊がいて、もっと奥地の村へ負傷者を運んだ。まだそのほかに老人と子どもの部隊もいくつかつくられ、戦闘員のもとに食糧や水をはこんだ。はだしの農婦たちは、司令部の伝令をつとめ、さまざまな戦闘部隊に命令をつたえ、また迅速に司令部へ報告をもってかえった。婦人の斥候は、敵軍の動勢に関する情報を、昼夜をとわず、司令部へもってきたが、その内容は詳細でかつ正確だったことには、朱徳も…
1927年7月18日、朱徳将軍は、ただちに任地を離れて、江西省北部の、南昌からそれほど遠くない小さな村でひらかれる共産党秘密会議に出席せよ、という招請をうけとった。その日の夕刻、ある大きな建物へ入ってゆくと、そこには共産党の主な指導者たちが多勢あつまっていた。 あたりには彼のよく知っている人びともたくさんいたが、名前だけしか聞いたことがない人もたくさんいた。上海で殺されそうになって、あやうく脱出した周恩来もきていた。みんなは、周のことをただ「鉄の人」と呼んでいた。四川省でかろうじて死地を脱出した劉泊承もいた。中国総工会の書記で、漢口政府の労工部長をしていた蘇兆徴も、農業部長の譚平山といっしょに…
年ごとに家にきた旅職人たちについて、朱将軍はいった。 「彼らはのちの産業プロレタリアートの先駆者だった。だから、農民よりもひらけていて、独立的で、鋭敏だった」 職人の中には、19世紀半ばの太平天国の乱について話すものがいた。それは、当時まででは中国最大の農民の反乱であり、キリスト教的色彩をおびていた点まで、3世紀前のドイツ農民の反乱に驚くほど似ていた。ところで、冬ごとに朱家にきた職人のひとり、あの「機織じいさん」は、かつて石達開がひきいる大平軍の兵士だった。石達開は、太平の首領中いちばん人気のあった人であり、客家出身の学者だったが、おのれの土地をふくめて一切のものを売りはらい、売上金をすべて大…
この巻では太平洋戦争前後の状況が描かれている。 日本とアメリカだけではなくて、中国の革命側や蒋介石の国民党軍側がこの戦争の開始をどう考えていたのかもわかって興味深い。 こんなことを考えたこともなかった。 それと国民党側だけでなく、日本もアメリカもいわゆる「アカ」に対して強い警戒心を もっていて、それと反ファシズムというイデオロギーも絡み、国際情勢を理解するのにとてもややこしいという感想をもっている。 気になるキーワード 自給生産運動― 国民党が解放区への外界からのすべての供給をストップしてきたので毛沢東が公式に宣言する。 「三光」戦略― 1941年7月に華北日本軍の総司令官岡村寧次によって開始…
「われわれが、この新しい政策を実行に移す最初の行動は、南昌で『鉄軍』の武力蜂起をおこない、つづいて、この軍隊を広東へ進軍させ、新たに国民革命政府を樹立することであった。南昌蜂起は収穫期に合わせて計画した農民蜂起の合図となり、相呼応してたちあがった農民は、民団、すなわち地主どもの私兵部隊からうばいとった武器で武装することになっていた。しかし、後になってわかったことだが、軍隊を使って、農民蜂起を援助した指導者は、毛沢東ただひとりであった。毛沢東は、こういう闘争を通じて、もっとも活動的な農民義勇隊をえらんで、その部隊を増強していった。 「この秘密会議で採択された政策は、次のスローガンで要約することが…
欧米から逃げた 中国共産党の親族や 妾はどこに行くのか? もちろん、銀行の金庫がしっかりしている日本に決まっているだろう。とにかく欧米の留学生や 共産党の妾とその子供たちが コロナウイルスとともに日本に入ってきている。 彼らは金を持っているが、それはチベット人やウイグル人や農民工から掠め取った巨額なお金を 共産党員がポケットに入れて欧米で資金浄化して銀行に預けた 奴隷化された人民の血と汗の金なのである。 チベット人やウイグル人には 彼らの言語を奪うだけではなく、彼らの音楽や踊りや独特の文化そして重要なのは宗教を奪い、習金平と毛沢東の写真と五光星旗を掲げさせて拝ませるだけではなく、自分たちの親族…
「国家安全法」の香港導入 歯切れ悪い与党幹部、「角栄」の遺産に傾斜 - 産経ニュース 「田中角栄*1」云々という辺りが実に産経らしくてくだらない。確かに日中国交正常化時の首相は田中角栄(田中派ボス)ですが ◆日中国交正常化時の外相:大平正芳*2(大平派ボス、後に首相) ◆日中平和友好条約締結時の首相:福田赳夫*3(福田派ボス) ◆日中平和友好条約締結時の外相:園田直*4(福田の側近) ◆天皇訪中時の首相:宮沢喜一*5(宮沢派ボス) ◆天皇訪中時の外相:渡辺美智雄*6(中曽根元首相の子分。中曽根から派閥を引き継ぎ、渡辺派ボス) ◆江沢民訪日時の首相:小渕恵三*7(小渕派ボス) ◆江沢民訪日時の外…
未来を守るために中国共産党に問責を=ハドソン研究所専門家 2020年03月24日 21時49分 大紀元より転載 https://www.epochtimes.jp/p/2020/03/53605.html 中国共産党の情報隠蔽で世界中に感染拡大した。写真はイスタンブールで道路を消毒する関係者(Chris McGrath/Getty Images) 米保守系シンクタンク、ハドソン研究所の専門家は、中国共産党がSARSの教訓を学ばず、中共ウイルス(武漢肺炎)発生後に情報を隠蔽し、他国との情報共有を拒否した一連の行動は、国内で悲劇をもたらしただけでなく、世界に災いをもたらしたと分析している。 このよ…
川野明正著 白帝社アジア史選書 2013/12/20 雲南省が日本とほぼ同じ面積であること。その中に28もの少数民族が生活していること。鉱物資源の産地で、モンゴル帝国の銀の流通を支えたこと。聞いたこともない民族の名前がずらずらとリストアップされています。例えば、プミ族、ナシ族、リス族、ハニ族、ラフ族、ジノー族、ヌー族、ペー族、トールン族、アチャン族、ジンポー族、プイ族、コーラオ族などなど。筆者の配偶者が雲南省出身で、義父から雲南のことを学ばれたようです。秋篠宮殿下がタイのメコン川にお出ましになられていたのは、やはり意味があったのでしょうね。 川を挟んで1本の綱に滑車で横断する写真は初めて見まし…
ANAホテル領収書 桜夕食会の宛名は「上様」 首相答弁と一致 - 産経ニュース 残念ながらANAホテルが結局、安倍の恫喝に屈したと言うことなんですかね?。それとも「一部参加者」がうさんくさい「捏造の疑いすらある領収書」を産経に提供したにすぎないのか? 【正論】日本は中国の友か贖罪の山羊か 東京国際大学教授・村井友秀 - 産経ニュース 毛沢東時代末期になると、共産党の対日政策は変化した。この時期の最重要政策は台湾統一であったが、共産党は台湾政策の重点を武力統一から平和統一へ移し、第三次国共合作を模索するようになった。共産党は国民党との協力を推進するために共通の敵を作ろうとした。共産党は日本を共通…