日本三大水城に数えられる城で、別名吹揚城ともいう。 豊臣政権末期から、いち早く家康に接近した藤堂高虎は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍方の重要な大名として働き、戦後に伊予半国20万石を与えられた。 それまでの東予における拠点は、今治から南東約5kmにある国分山城であったが、「宗国史」に地勢卑窄とあったように、高虎は後背の平地の広さや水運を活用できる立地など、城下の発展性を考えて、今治に新たに築城することを決めたとされる。 この辺りは、経済的観念の発達した地域であった近江出身の武将らしい所だが、泰平へ向けた時代の流れでもあったのだろう。また、今張だった地名を今治に変えたのも高虎で、治の…