プロ野球選手。
本名「政夫」。通称「炎の中継ぎ」。
右投右打、ポジションは投手。背番号は15番。
1968年10月16日生まれ。佐賀県唐津市出身。
唐津商業高校から日産自動車九州に進む。
先発投手として都市対抗野球4度・社会人野球日本選手権2度出場を果たす。
1995年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスへ入団。
初年度より一軍で登板、1完封を含む4勝を挙げる。
1997年より救援投手になり、98年は48試合に登板し4勝を挙げる。
1999年、「炎の中継ぎ」として活躍し、3勝1敗3S、シーズン26ホールドと、当時のパリーグ最多ホールド記録を樹立。
中継ぎ投手として篠原貴行と共に活躍。
福岡ダイエーホークスのパ・リーグ初優勝、日本一の立役者となる。
日本シリーズ中に胸部の痛みを訴え、翌シーズンは入退院を繰り返しつつ2軍での調整を計ったが、
チームのV2を見届けたのち、2000年10月13日、肺がんのため逝去。31歳だった。
福岡ドームの15番ゲートは、「藤井ゲート」として、
記念のプレートと写真、そして藤井の最後のメッセージが入り口に掲げられている。
皆様へ
今の自分があるのは、過去から現在において出会ったすべての人のおかげだと思います。
その中の誰一人がかけても、今のこの幸せな自分は存在しませんでした。
だから、すべての人に感謝しています。
プロ野球選手はまわりの人々に夢と希望を与える職業だという人がいます。
でも、ボクは逆です。たくさんの人から夢や希望、エネルギーをもらってきました。
そのことがうれしかったんです。
6年前の入団発表のとき、王監督を胴上げしたいと抱負を述べました。
その願いも去年のリーグ優勝と日本一で無事に達成できました。
そして、今年はチーム全員で頑張ってつかんだV2。すばらしい野球人生だったと胸を張れます。
この病気には自分自身、すごく勉強させてもらいました。
孤独や優しさ、思いやり、不安。人間の本当の感情に触れることができました。
今までのボクは上っ面のとこしか見えてなかったんだなとも思いました。
すべては、この病気が教えてくれたことです。
この一年間、ゆっくりと休ませてもらいました。
あらためて野球を頑張ろうという気持ちにさせてくれた中内正オーナー代行はじめ球団の方々、
王監督、チームメートの皆、感謝の気持ちは忘れません。
そして、生きる希望を与えてくださったファンの皆様、ありがとうございました。
これからもダイエーホークスを応援してください。藤井将雄
福岡ダイエーホークスでは、背番号15を準永久欠番としている。福岡ソフトバンクホークスになった現在も受け継がれており、現在正式に永久欠番とすることが検討されている。
また、「藤井ハリー」として姿を変えベンチ入りし、ホークスナインと共に戦っている。