新選組八番隊隊長。弘化元年(1844年)〜慶応3年(1867年)11月18日。
武蔵国江戸(東京都)出身、享年23歳。
永倉新八著の名簿に「藤堂和泉守落胤」と記されており、これは「藤堂自身が「そう
言っていた」と言われるが、真偽のほどは定かでない。
しかしこの説は新選組の外にも知っている者がいたほど有名だったようだ。
母は藤堂家の下屋敷のあった駒込の花屋の娘というもある。
北辰一刀流の目録で千葉玄武館で学んだといわれている。しかし何故か免許を授かる前に
道場へ顔を出さなくなり、いつの間にか近藤の試衛館に入り込んでいた。文久3年に
試衛館の皆と共に浪士組に参加。その時20歳。
のちに思想の違いから伊東甲子太郎らと近藤派の新選組を離れるが、伊東甲子太郎が
殺され、その遺体を運ぼうとした時に待ち伏せしていた隊士らに斬られる。
池田屋騒動では近藤指揮のもと表口から突入。その戦闘の最中、あまりの暑さに
鉢金をはずした瞬間に 物陰から飛び出してきた敵に額を斬られる。額の傷は深く
出血も激しかった為それ以上の戦闘は不能となり、一足先に祇園会所に引き上げている。
それから一月ちょっと後の七月に起こった禁門の変には出動。
新選組創設以来の幹部だったが、のちに伊東甲子太郎らとともに分離。
油小路の戦い(新選組と伊東一派との争い)の時、永倉はそっと道をあけて藤堂を
逃がそうとしたが、事情を知らない新入隊士(三浦常次郎とも)が、藤堂に斬りつけ死去。
若いながらも文武両道に秀で、品格も備わった人だったらしい。
愛刀は上総介兼重は藤堂家の御抱鍛冶で、作風は虎徹に似ている。
現在知られている新選組隊士の所持していた刀の中では、一番高い刀の部類に入る。
このことにより藤堂平助が藤堂家のご落胤という説に信憑性も。