1889(明治22)年10月28日、石川県七尾市に生まれる。1932(昭和7)年1月29日没。小説家、劇作家、劇評家。
18歳のとき、文筆を志して上京。同郷の作家志望の安野助多郎によって徳田秋声や室生犀星と知り合った。やがて、秋声と親しかった三島霜川が編集主任をしていた演芸画報社に入社し「演芸画報」の記者となった。
もともと役者志望で、画報社に入社前後には、杉贋阿弥の紹介状を携えて柳川春葉を訪ねたことがあったという。たいへんな芝居好き。終生、小山内薫に最も親炙した。
画報社を退いたあとは、小山内薫の紹介で松竹キネマやプラトン社に勤務するも長続きせず。
大正11年に友人(上記の安野助多郎)の悲惨な死をテーマにした長篇小説『根津権現裏』によって文壇に登場した。大正13、14年頃がその文学活動のピークであったが、寡作と放埒のため、生活は貧困の連続。悪所通いに基因する精神病から失踪を繰り返し、芝公園内で凍死体となって発見された。
なお、芥川賞作家の西村賢太が師と仰ぐことで清造は一躍注目された。