清盛のいうように頼朝はさる平治元年十二月、 父|左馬頭《さまのかみ》義朝の謀叛によって殺される運命にあったが、 池禅尼の必死の嘆願で死を免れ、十四歳のとき、 永暦《えいりゃく》元年三月二十日、 伊豆国|北条《ほうじょう》蛭《ひる》が小島《こじま》に流されたものである。 頼朝はここで二十余年の春秋を送り迎えた。 これまで静かに流人の生活を送ってきた彼が、 何故 今年《ことし》になって兵を起し、平家に立ち向ったのか。 それは高雄《たかお》山の文覚上人の勧めがあったからである。 この文覚上人というのは、 渡辺の遠藤左近将監茂遠《えんどうさこんのしょうげんもちとお》の子で、 もとは遠藤武者盛遠《えんど…