かつて豊後は西国一の国力豊かで先進文化が栄えた地であった(主として国東地方、豊後大野地方)。鎌倉から入国して来た守護大友氏もこれを基礎に一大覇権国家を営んだ。島津氏の薩摩を除けば概ね九州を制したのである。古くより開発された大野川流域一体の農業生産力と豪族大神一族の武力に負うところが大きい。 その後、不幸にも島津氏に領国を蹂躙され、大友氏が秀吉に改易され、豊後が秀吉子飼いの家臣達への褒賞地として細分化されるに到り、豊後は政治的、経済的に弱体化した地域のまま現代に至る。長い太平の江戸期をそのままの形で過ごすことになろうとは、当時の大名達でさえ想像出来なかったはずである。徳川後の次なる覇権争いの出現…