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豊臣秀吉

(社会)
とよとみひでよし

安土桃山時代の武将。出生については諸説あるが、木下弥右衛門の子とする。

尾張国中村(愛知東部)に生まれる。

天文23年(1554年)、尾張の織田信長に仕え、木下藤吉郎秀吉と名乗る。『太閤記』など後代の編纂物によれば優れた才能を発揮し、斎藤氏と戦った際は墨俣に一夜にして城を築いたとされ、信長に重用されたという。

その後も数々の戦いで功を挙げ、織田家の重臣として出世を重ねる。天正10年(1582年)、安芸の毛利氏征伐の総大将として出兵中、信長が家臣明智光秀により討たれた本能寺の変を知り10日で畿内に戻り(中国大返し)、山崎の合戦で光秀を討った。

信長死後の織田家においては、後継を決める清洲会議では信長の孫・三法師(織田秀信)を擁して柴田勝家らと対立するが、天正11年(1583年)に賎ケ岳の戦いでこれらを破った。

その後、東国において台頭した三河の徳川家康小牧・長久手の戦いで服属させる、九州・四国を次々と征伐し統一政権を樹立した。。1585年には関白となり姓を豊臣と改める。1589年、北条氏を小田原で滅ぼし、奥州征伐を行って日本全土を制圧し、豊臣政権を確立する。

その後、2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行うが失敗し、その間の1598年、病死した。

秀吉は性質の北政所のほか信長の姪にあたる淀君を室とし、淀君との間には豊臣秀頼が生まれている。秀頼は秀吉の死後に後継となるが、秀吉死後の豊臣政権では徳川家康が台頭する。

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