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貝原益軒

(読書)
かいばらえきけん

●寛永7(1630)年〜正徳4(1714)年8月27日。筑前(=福岡)の黒田藩、書記役の子。名は「篤信」。
●ために書庫は本であふれ、幼くして『塵劫記』〜『本草綱目』まで渉猟し尽くした。28歳で京都へ遊学。この際、もともと病弱だったのが再燃して、ここで農耕の祖「神農」よろしく自らの体を実験台に漢方を試した。
●そして39歳にして17歳の「お初」を嫁にもらい、ふたり連れ添って諸国を旅し、それを元に観光ガイド;『諸州巡覧記』を出版した所、大当たり。一大旅行ブームさえ巻き起こした。
●所が1681年、「天和の飢饉」で自分の施しも学問も通用しないことを大いに反省し、「民生日用の学」(=実際つかえる実用学)に目覚め、自らの畑に数十種類もの野菜・薬草を植えて事細かに研究。
●そうして同じ種属でも日照りや冷害などに強い、環境への適性があることや、枝葉を土に植え込んで日射を遮断し、そのまま腐葉土としてしまう方法など考案。
●十年以上に及んだ研究を元禄9(1696)年、宮崎安貞との共著の形で『農業全書』で発表した。図版多載の、仮名まじり口語文で、万人に平明な解説書を目指した。早生〔わせ〕・晩生〔おくて〕の使い分けや、肥料を使っての土壌改良、同じ土地で時期を変えて2つの作物を作る「二毛作」等々、農業を一新する。
●また、自分の名義で、より専門的な『菜譜』・『花譜』も出版。
●実用書として重宝がられ、飛ぶように売れた。「農業を百年進めた」と評われる。
●元禄13(1700)年に71歳で職を辞し、夫人の「お初」 (;→ 「東軒」と号す)と楽曲や書を嗜み、「“粋”な夫婦」と呼ばれるに至る。
●その傍ら道徳を説いた“益軒本”シリーズ=『大和俗訓』・『家道訓』・『和俗童子訓』も出版。
●宝永6(1709)年に80歳で日本初の薬草百科;『大和本草』を発表。
●正徳3(1713)年、84歳にて22歳年下の恋女房「東軒」を喪い(62歳)、同年、集大成の遺訓的に『養生訓』を上梓。
●正徳4(1714)年8月27日、辞世に「こしかたは一夜ばかりの心地して、八十路ばかりの夢をみしかな」と残して逝去。享年85。
●他にも懐疑的に生涯検討し通した朱子学〜陸王学の著述もある;『慎思録』、『大疑録』、『益軒十訓』など。

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