4 勝野豊作との親交 翌嘉永2年3月には、謙介の長年の艱難辛苦も報われ、徳川斉昭の藩政関与が許されることとなった。幕臣で儒者の林鶴梁(伊太郎)の日記の同年9月9日の条に、「児島恭介と有之手紙来ニ付、開封、一過之処、国元ゟ鮭一尾呈上仕度、野村ゟ申来云々」とある。「野村」とは野村彝之介(鼎実)と思われる。国元の野村から鶴梁に贈られた鮭を謙介が届けたものと思われる。当時も謙介は江戸にいたらしい。なお、林鶴梁は藤田東湖とも親交があり、幽閉中の生活に窮する東湖に、同志9人と共に救援金を贈っていた経緯もあった(『林鶴梁日記』)。なお、これ以後嘉永6年に至るまでの大野謙介の去就は定かでない。 『井伊家史料・…