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金子文子

(一般)
かねこふみこ

1903-1926
アナキスト。横浜に生まれる。小学校入学時、出生が届けられていなかったことで、すぐには通えなかった。父親が母親の妹と駆け落ちし、母親は再婚し家庭状況には恵まれずに育つ。当初は母親と同行するが9歳で、山梨県諏訪村(現牧丘町)の母親の実家に引き取られる。翌年、朝鮮忠清北道芙江の叔母の家に引き取られ養子となる。養家では虐待を受け、自殺を考える。1919年、三・一独立運動を目撃し、深く感動する。7年におよぶ地獄の日々の後、再び母の実家に戻り、諏訪村や実父の居る浜松で暮らすが父親からの一方的な結婚話に翻弄され、勉学の目的もあり翌年東京に出る。上野での新聞捌き売り、露天商人、女中奉公など、苦学しながら正則英語学校と研数学館に学ぶ。仕事先、学校、上野で社会主義者や関心を持つ友人と交流、社会主義関連の書物を読み始める。1922年、朝鮮人アナキストの朴烈と出会い、5月から同棲を始める。朴烈と共に社会主義思想に基づく新聞『黒涛』を創刊。1922年末、アナキズム活動のため「黒友会」を朝鮮の同志と共にたちあげる。1923年、日本人の仲間も含め「不逞社」をたちあげ、自分たちの住居を事務所と兼ねる。運動誌『太い(ふてい)鮮人』『社会』を発行。1923年、関東大震災直後の9月3日、世田谷警察署により保護検束の名目で留置され、さらに治安警察法違反、爆発物取締罰則違反で予審起訴。市ヶ谷刑務所に移監。この間、獄中手記を執筆、仲間への手紙に短歌を添える。(後に同志が出版)。長い予審調べが続き、1925年、皇太子の結婚式(1923年に目論まれていた)に爆弾を投げつけようとしていたという予審判事のフレームアップした物語を受け入れ大逆罪(刑法73条)、改めての爆発物取締罰則で予審起訴される。実際には朴烈は爆弾は自分で製造する意思もなく朝鮮の義烈団の所有する爆弾を人を介して入手しようとしただけでことごとく失敗している。1926年2月大審院で公判が開始、布施辰治、山崎今朝弥弁護士らを選任。3月25日、有罪を宣告される(大逆罪は死刑しか刑が定められていない)。4月5日に恩赦という名目で政治的減刑で無期懲役となる。宇都宮刑務所栃木支所にて服役。7月23日に刑務所当局は縊死と発表するも遺体検分は公にされていない。23歳。
参考:金子ふみ子『何が私をこうさせたか』

関連文献
『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』 ―手記・調書・歌・年譜鈴木裕子編/亀田博・年譜2006年7月刊
出版元サイト http://www.jca.apc.org/nashinoki-sha/jiyusiri-zu/jiyu1.htm
近代国家を構想した思想家たち (岩波ジュニア新書)』岩波ジュニア新書

京都の書店「三月書房」による文子忌
http://3gatsu.seesaa.net/article/21246148.html

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