昭和16年(1941)12月8日、神戸のホテルのルームで朝寝を決込んでいた徳川夢声のもとへ、岸井明が駆込んできた。慌てた様子で、扉も開けっ放しのままだった。東條英機首相のラジオ放送が始まるという。 夢声は月初めから湊川新開地の花月劇場で芝居の興行中だった。演目はドタバタ諷刺喜劇「隣組鉄条網」で、谷崎トシ子(戦後の人気歌手江利チエミの生母)ほかの共演による、十日間興行だった。浅草での初演が当ったのを観て、それではと吉本興業が神戸へ持ってきたのである。 おりしも唄えるコメディアンとして人気者だった岸井明が阪急会館で音楽ショーの興行中で、同じホテルに宿泊していた。 昼夜二回興行とはいっても、芝居の準…