厚岸に屯田兵を誘致する際、太田紋助が土地の選定を主導したので、その屯田兵村は太田村と命名された。 だがその土地は農業に向かず適作物の試験なども無く全てが試行錯誤であったため凄まじい労苦があった。 太田村へは明治23年に440戸が入植。明治37年、日露戦争への招集後、同年9月に屯田兵条例は廃止された。 故に太田村は衰退したが、農業に畜産をとり入れる主畜農業を展開、馬産、肉牛を経て酪農へと移行した。 厚岸に屯田兵が誘致されたのは、明治に入ってから道東の中心地が厚岸から釧路へ変わったことによる。 江戸時代までは「場所」として、また蝦夷三官寺の一つ厚岸国泰寺が置かれて栄えた厚岸だったが……。 鳥取士族…
地域調査で紋別市立博物館に行った。紋別市はオホーツク海沿岸の漁業が盛んな地域である。観光資源としては冬季に流氷をドリルで砕きながら進むガリンコ号などで有名である。博物館は漁業が中心であり、順路としては左回りで漁業の仕組みの映像から始まり、漁業に使う道具の展示を見て、漁業の拠点となった番屋に辿り着く。さらに壁面展示を周ると農具や民具が配置されており、中央部には旧石器~近世江戸期までの時代ごとの解説パネル(近代以降は年表)や学習用PCがある。その他、紋別市にかつてあった産業として名寄線の鉄道展示、砂金と金鉱山の開発の歴史と終焉が独立展示としてあった。 【目次】 展示など 紋別市における和人の進出~…