阿部謙四郎

阿部謙四郎

(スポーツ)
あべけんしろう

昭和初期の柔道家。 徳島県出身。昭和61年、71歳で没。

明治時代に設立された財団法人「大日本武徳会」という半公的武道組織の下で運営された京都の「武道専門学校」、通称「武専」にて学ぶ。
当時の武徳会は、講道館とは別に柔道の段を与える資格もあった。


昭和11年、武専時代に宮内省が主催する柔道の「五段選抜試合」で、”柔道の鬼”として知られる木村政彦に払い釣り込み足から大外刈りで勝利(木村にとっては、柔道公式試合の最後の負けとなった)。
寝技の強さでも知られた。
また、植芝盛平から合気道も学ぶ。
昭和12年、武専を卒業した阿部は陸軍(徳島四十三連隊)に入営。
昭和16年3月に除隊するも呼び戻され、中尉となって再入隊し終戦に至った。


戦後は京都市警の柔道師範。
昭和21年、武徳会(戦時中武徳会は再編成され、政府の統制が強化された武道管理団体に性質を変えている)総裁を務めた梨本宮が先般として逮捕されたことに対し、釈放嘆願の署名活動を開始。
また講道館が段位発行などを独占し始めたことに反発、武徳会の再建を主張したため、戦後柔道界では次第に異端扱いされた。
反発を強めた阿部は講道館に対して自身の「七段」を返上(書留小包による)。
昭和30年3月に渡英。講道館とは一線を画しつつ、イギリス人の弟子たちを指導した。

講道館に関しては旧武徳会系柔道家の立場から「柔道衣を着たこともない講道館の館長が、ただ世襲で段を出して多額の免許料をとっていることをなぜ許すのか。(他の柔道家は)反対するどころか彼らのお使いのようなことをして恥ずかしくないのか」と批判した言葉が残っている。



昭和43年12月、京都に戻り「求心道道場」を旗揚げ。この際、既に市の所有物となっていた旧武徳殿の建物に、勝手に看板を掲げ、入会者を募集したという。


晩年は秩父市の老人ホームで生涯を過ごした。

昭和60年、死の前年に白崎秀雄が阿部に話を聞き、その生涯を「当世奇人伝(正確な書名は奇人の奇が「田」に「奇」)」という本にあらわしている。
同書によると木村政彦からの勝利にも「あのとき私はチャンスにめぐまれたんです」「宙に舞わせたの、あつかった(木村の師牛島辰熊がこう表現)というのは大げさです」と謙虚に語り、
「私の生涯は昭和12年6月に、現役で入隊したあのときまでで実は終わっていた」
と語ったという。


戒名は聖徳院四海求心貫通大居士。
墓所は故郷徳島県にある。

参考文献:ゴング格闘技205号・増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」第18回

GONG(ゴング)格闘技2009年7月号

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当世畸人伝

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