戦前まで、旧陸軍が各地の衛戍地ごとに設置し、保有していた戦没者の墓地。西南戦争から日清・日露戦争、第二次大戦までの戦没者の霊がおさめられている。 訓練中死亡した兵学寮生徒や兵卒、病死した兵隊の霊もまつられているのが特徴。 また、創設当初は個人墓碑を設置していたが、15年戦争での戦死者の膨大化により、共同の「忠霊塔」となった。
海軍墓地
2025年(令和7年)、「戦後80年」という節目の年、福岡陸軍墓地の慰霊祭に参列しました。祖国のために命を捧げた先人に感謝と追悼を行い玉串を捧げてきました。 ※今回の式典参加、撮影及びブログ掲載に関し福岡県郷友連盟の皆様に承諾を頂きました。有難うございます。(陸軍墓地で開催)慰霊祭が開催されたのは福岡市中央区の住宅街の中にある谷公園です。 福岡市中央区にある谷公園は、かつての陸軍の墓地で、現在は合葬墓6基と個人墓などがあり明治維新から太平洋戦争までの福岡県出身戦没者ら計1万6千余柱が祭られています。福岡陸軍墓地に関してはここをクリックして下さい👇 (戦後80年の2025年:令和7年の慰霊祭)2…
軍都として栄えた福岡県久留米市には、今も戦争遺跡が残っていて、見ることができます。今回は、久留米陸軍墓地周辺にある数時間で全部見ることができる戦争遺跡を巡ります。 (軍都として栄えた久留米市) 福岡県の中部にある久留米市は、18999年(明治 22年) 4 月に実施された最初の市制施行で全国31都市とともに誕生しました。そして官民挙げて軍隊の誘致活動を行い師団や連隊が移駐し軍都として発展していきます。 (久留米陸軍墓地に残る5つの戦争遺跡) 現在久留米競輪場がある場所は、久留米陸軍墓地でした。この周辺には、下の5つの戦争遺跡を見る事ができます。 ①ドイツ兵俘虜慰霊碑 ②陸軍橋 ③円形野外講堂 …
福岡県久留米市の陸軍墓地に作られた遙拝台。赤煉瓦の円柱の立派な建物です。 (遙拝台とは・・) 遙拝台(ようはいだい)。。今では聞き慣れない言葉ですが、遙拝をする場所です。戦前、軍や行事などで、天皇が住む皇居の方向に向かって頭をさげる=宮城遥拝(きゅうじょうようはい)がよく行われていました。「宮城(きゅうじょう)」は皇居のことです。 この遙拝台は、久留米の陸軍墓地に作られた施設の1つです。 (ちょっとわかりにくい場所にある) 師団司令部が置かれ、軍とともに発展した歴史を持つ福岡県久留米市。市内の野中町にある久留米競輪場一帯は、陸軍墓地の跡地で、今も遙拝台が残っているので現地に足を運びました。ただ…
広島市南区比治山公園の陸軍軍人の墓地を進んでいきますと、 日清戦争の軍人の墓碑の先には、 海の見えますとても美しいところに、フランス兵士の墓があります。 1900年(明治33年)、中国における義和団の乱鎮圧(北清事変)の際、フランス傷病兵120余名が広島に搬送され陸軍病院で治療されましたけど、そのうち7名が治療の甲斐もなくこの地で落命しましたと、 書かれています。 そして更に、 彼らはここ比治山陸軍墓地の一画、海を見下ろす絶景の地に埋葬されたとも書かれています。 比治山の南、目の前には、パノラマが広がっています。 明治の頃は、広島湾ももっと綺麗に見ることが出来たでしょうね。 異国中国で負傷し、…
比治山公園にあります陸軍墓地です。 放影研の先にあります。 子供の頃から何度ともなく登りました比治山ですけど、 陸軍墓地を訪ねるのは初めてです。 バラバラになっていたお墓をまとめたのでしょうか? 左右には、陸軍軍人合葬之墓とあり、都道府県別に全国の墓が並んでいます。 それでも、現存墓数が戦前に五百余柱不足して所在不明となっているそうです。 明治の時代から軍都として発展しました広島は、宇品港から多くの兵隊さんを戦地へと送り出しています。 墓地の先には、広島湾へと繋がっています。 墓地を進んでいきますと、正面に大きな5つの合葬之墓があります。 両サイドには陸軍軍属合葬之墓とあり、 中の三つには、 …
臨済寺の住職にいろいろ教えてもらい、歩いて見学に。 教えてもらった話の中に、吉田藩の処刑場が臨済寺のすぐ南西にあるはずだからと言って探しに来た人がいたとのこと。住職は「寺の中には不吉な場所はつくらない。それは今の陸軍墓地辺りだと思う」と教えたという。 帰ってからネットで調べると、あさひ健遊会のウォーキングマップに書かれていた。あさひ健遊会が何なのかわからないが、細かに調べ地図を手書きで作成されている。郷土史の研究をされている方々が作ったのか。自分にとって楽しみな地図に出会えた。また豊橋市立旭小学校区を探索するためのアイテムが手に入った。 子供の頃、小学校に通うのに陸軍墓地の中を通っていた。1人…
打ち合わせとパソコン使用のために入ったカフェというか喫茶店。元はガストで今もすかいらーくグループの経営ということで、どうにもファミレスっぽさが強い。「焼き塩」が目立つところに置いてあったりする。 それに、ものすごく手前に水と皿(ミルクにスプーンを添えて)とコーヒーを並べるなど、カフェや喫茶店が好きな人が嫌いそうな無神経さが目立つ。僕はパンケーキを注文したのだが、「コーヒーと一緒に」と伝えたのに、コーヒーと共に届いたのはメープルシロップだけだった。仕方がないのでシロップを眺めながらコーヒーを飲み、20分後にパンケーキを食べた。 パンケーキはおいしかった。コーヒーは煮詰めたような苦さ。ミルクを入れ…
2022年(令和4年)10月16日(日)、福岡市にある陸軍墓地で行われた慰霊祭に参列し、祖国のために命を捧げた先人に感謝と追悼を行い玉串を捧げてきました。 ※今回の式典参加、撮影及びブログ掲載に関し福岡県郷友連盟の皆様に承諾を頂きました。有難うございます。 (陸軍墓地で開催) 慰霊祭が開催されたのは福岡市中央区の住宅街の中にある谷公園です。墓地に通じる道に建てられた石碑には、慰霊祭の案内ビラが貼られていました。 雨風にさらされていたようで案内紙は傷んでいましたが読めます。 福岡市中央区の谷公園は、かつての陸軍の墓地で、現在は合葬墓6基と個人墓などがあり明治維新から太平洋戦争までの福岡県出身戦没…
軍都 豊橋 あまり考えてこなかった戦争。日本において豊橋は兵隊さんの街だった。数万人の町に4000人の兵隊がいた。軍に関係する人たちまで含めると2万人もの人がいた。明治18年ころから日本軍の重要地帯だったんだろう。隣の豊川(とよかわ)市には東洋一の海軍工廠があった。豊川(とよがわ)の河口には1500mクラスの滑走路が3本もあった。 そんな軍都も、戦後いっきに平和のために動き出した。第15師団や第18連隊などの軍事施設は全て学校、公園・行政施設などに作り変えられて行った。吉田城周辺の豊橋公園や愛知大学豊橋校舎・時習館高等学校、市立の小中学校などに姿を変えている。昭和30年代初めの頃にはほとんど兵…