戦前まで、旧陸軍が各地の衛戍地ごとに設置し、保有していた戦没者の墓地。西南戦争から日清・日露戦争、第二次大戦までの戦没者の霊がおさめられている。 訓練中死亡した兵学寮生徒や兵卒、病死した兵隊の霊もまつられているのが特徴。 また、創設当初は個人墓碑を設置していたが、15年戦争での戦死者の膨大化により、共同の「忠霊塔」となった。
海軍墓地
福岡県久留米市の陸軍墓地に作られた遙拝台。赤煉瓦の円柱の立派な建物です。 (遙拝台とは・・) 遙拝台(ようはいだい)。。今では聞き慣れない言葉ですが、遙拝をする場所です。戦前、軍や行事などで、天皇が住む皇居の方向に向かって頭をさげる=宮城遥拝(きゅうじょうようはい)がよく行われていました。「宮城(きゅうじょう)」は皇居のことです。 この遙拝台は、久留米の陸軍墓地に作られた施設の1つです。 (ちょっとわかりにくい場所にある) 師団司令部が置かれ、軍とともに発展した歴史を持つ福岡県久留米市。市内の野中町にある久留米競輪場一帯は、陸軍墓地の跡地で、今も遙拝台が残っているので現地に足を運びました。ただ…
広島市南区比治山公園の陸軍軍人の墓地を進んでいきますと、 日清戦争の軍人の墓碑の先には、 海の見えますとても美しいところに、フランス兵士の墓があります。 1900年(明治33年)、中国における義和団の乱鎮圧(北清事変)の際、フランス傷病兵120余名が広島に搬送され陸軍病院で治療されましたけど、そのうち7名が治療の甲斐もなくこの地で落命しましたと、 書かれています。 そして更に、 彼らはここ比治山陸軍墓地の一画、海を見下ろす絶景の地に埋葬されたとも書かれています。 比治山の南、目の前には、パノラマが広がっています。 明治の頃は、広島湾ももっと綺麗に見ることが出来たでしょうね。 異国中国で負傷し、…
比治山公園にあります陸軍墓地です。 放影研の先にあります。 子供の頃から何度ともなく登りました比治山ですけど、 陸軍墓地を訪ねるのは初めてです。 バラバラになっていたお墓をまとめたのでしょうか? 左右には、陸軍軍人合葬之墓とあり、都道府県別に全国の墓が並んでいます。 それでも、現存墓数が戦前に五百余柱不足して所在不明となっているそうです。 明治の時代から軍都として発展しました広島は、宇品港から多くの兵隊さんを戦地へと送り出しています。 墓地の先には、広島湾へと繋がっています。 墓地を進んでいきますと、正面に大きな5つの合葬之墓があります。 両サイドには陸軍軍属合葬之墓とあり、 中の三つには、 …
臨済寺の住職にいろいろ教えてもらい、歩いて見学に。 教えてもらった話の中に、吉田藩の処刑場が臨済寺のすぐ南西にあるはずだからと言って探しに来た人がいたとのこと。住職は「寺の中には不吉な場所はつくらない。それは今の陸軍墓地辺りだと思う」と教えたという。 帰ってからネットで調べると、あさひ健遊会のウォーキングマップに書かれていた。あさひ健遊会が何なのかわからないが、細かに調べ地図を手書きで作成されている。郷土史の研究をされている方々が作ったのか。自分にとって楽しみな地図に出会えた。また豊橋市立旭小学校区を探索するためのアイテムが手に入った。 子供の頃、小学校に通うのに陸軍墓地の中を通っていた。1人…
打ち合わせとパソコン使用のために入ったカフェというか喫茶店。元はガストで今もすかいらーくグループの経営ということで、どうにもファミレスっぽさが強い。「焼き塩」が目立つところに置いてあったりする。 それに、ものすごく手前に水と皿(ミルクにスプーンを添えて)とコーヒーを並べるなど、カフェや喫茶店が好きな人が嫌いそうな無神経さが目立つ。僕はパンケーキを注文したのだが、「コーヒーと一緒に」と伝えたのに、コーヒーと共に届いたのはメープルシロップだけだった。仕方がないのでシロップを眺めながらコーヒーを飲み、20分後にパンケーキを食べた。 パンケーキはおいしかった。コーヒーは煮詰めたような苦さ。ミルクを入れ…
2022年(令和4年)10月16日(日)、福岡市にある陸軍墓地で行われた慰霊祭に参列し、祖国のために命を捧げた先人に感謝と追悼を行い玉串を捧げてきました。 ※今回の式典参加、撮影及びブログ掲載に関し福岡県郷友連盟の皆様に承諾を頂きました。有難うございます。 (陸軍墓地で開催) 慰霊祭が開催されたのは福岡市中央区の住宅街の中にある谷公園です。墓地に通じる道に建てられた石碑には、慰霊祭の案内ビラが貼られていました。 雨風にさらされていたようで案内紙は傷んでいましたが読めます。 福岡市中央区の谷公園は、かつての陸軍の墓地で、現在は合葬墓6基と個人墓などがあり明治維新から太平洋戦争までの福岡県出身戦没…
軍都 豊橋 あまり考えてこなかった戦争。日本において豊橋は兵隊さんの街だった。数万人の町に4000人の兵隊がいた。軍に関係する人たちまで含めると2万人もの人がいた。明治18年ころから日本軍の重要地帯だったんだろう。隣の豊川(とよかわ)市には東洋一の海軍工廠があった。豊川(とよがわ)の河口には1500mクラスの滑走路が3本もあった。 そんな軍都も、戦後いっきに平和のために動き出した。第15師団や第18連隊などの軍事施設は全て学校、公園・行政施設などに作り変えられて行った。吉田城周辺の豊橋公園や愛知大学豊橋校舎・時習館高等学校、市立の小中学校などに姿を変えている。昭和30年代初めの頃にはほとんど兵…
どうも、先日静岡は三島市内に行ってきました。 生まれてこの方、三島市は通過しかしたことが無い人生だったので史跡開拓目的で訪問しました。神奈川県西部移住民としては沼津と並んで訪問しやすい静岡地域かと思います。熱海?それはおひとり様だと悲しくなるので無いものとする。
土日にやろうと思っていたことが何もできず我ながら呆れ果てていましたが夕方になってやっと重い腰を上げてエアライフルを撃ちに行って来ました。 自宅を出て20分、成城学園前駅着、そしてバス(玉31)、到着。 利用されていた方々が帰ったあと、自分一人でした。 的を掛けます。 スキャナーが読み込まないのでアタフタ。 係の人「大元(電源)が外れてました~」 帰宅の途へ。 バスを待つ。21時台は2本だけ。 さて、先日「シルバー仮面」の第9話「見知らぬ町を追われて」を見たのですが、この回のロケ地は富士山の青木ケ原周辺、仮面ライダーストロンガーの第3話でも映る場所のようです。 ○青木ヶ原船津線/河口湖畔 (「ロ…
ドイツ兵俘虜慰霊碑は、JR南久留米駅から歩いて20分ほどのところにある。慰霊碑のほか旧陸軍に関係する戦跡がいくつか残っているので、それらも併せて訪ねてみた。 まず、歩いていると唐突に「忠霊鎮護之地」と刻まれた石碑が見えてくる。大きくカーブした道の両脇には鬱蒼と木が生い茂っており、神社の参道のような印象を受けたが、事実、ここは以前は参道だった。 現在は久留米競輪場の敷地となっているが、ここには久留米市民の勤労奉仕によって造成された陸軍墓地があった。石碑の後ろに見える石灯籠は、靖国神社の大灯籠を模したものだという。この参道を進んでいくと、様々な戦跡にたどり着く。 ①ドイツ兵俘虜慰霊碑 1914(大…
福岡県久留米市の久留米競輪場近くに、ドイツ兵俘虜慰霊碑があります。久留米には日本最大規模のドイツ兵俘虜収容所があり、ここで亡くなった方々の慰霊碑です。なお「俘虜」とは、捕虜のことです。 (久留米に日本最大のドイツ兵捕虜収容所があった)第一次世界大戦は1914年(大正3年)に始まります、当時は日独戦争と言っていました。日本は連合国の一員として参戦します。そして11月7日午後7時50分、久留米第十八師団が、中国大陸にあったドイツの青島要塞を陥落させます。下の写真は青島要塞を砲撃する四五式二十糎榴弾砲です。 青島陥落に関しては下をクリックして御覧下さい。 (独逸兵の多くは久留米へ)日本にやぶれ捕虜と…
福岡県久留米市野中町にある久留米競輪場。この一帯は、かつて久留米陸軍墓地があった場所で、現在は忠霊塔が建っています。 (そもそも忠霊塔とは?)忠霊塔とは、君主や国家のために戦争に出兵した戦死者の霊に対し、後世まで称え続けることを象徴するため建設された塔のことを指します。そのため忠霊塔には、戦争や出兵での戦死者の遺骨が納骨されています。忠霊塔は各地にあります。 (2年9ヶ月の勤労奉仕で完成)久留米の塔は、1939年(昭和14年)7月に着工し2年9ヶ月の歳月と25万円の費用、そして延べ11万2千人の勤労奉仕により、1941年(昭和16年)4月10日に完成しました。 (高さ17メートルの忠霊塔)塔は…
福岡県久留米市にある陸軍橋・見事なアーチの橋です。 (軍都・久留米にある陸軍橋)福岡県久留米市。戦前に陸軍の師団司令部があり、また肉弾三勇士が所属した独立工兵第18大隊がある軍都でした。 現在、久留米競輪場がある周辺に、陸軍橋が残っています。 陸軍橋は、放生池に架けられています。太平洋戦争中の1942年(昭和17年)4月に竣工した高さ15m、幅8m、長さ21mの橋です。 欄干には「陸軍橋」「昭和十七年四月竣工」の銘があります。 (久留米陸軍墓地へと向かう道にかかっていた橋)この地は、第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜収容所などがあった場所と、ブリヂストンの創始者で地元・久留米出身の石橋正二郎氏が寄…
師団司令部があり軍都として栄えた福岡県久留米市。ここには当時全国的に珍しかった円形野外講堂が建てられ、今も残っています。 (ちょっとわかりにくい場所にある) 福岡県久留米市の野中町にある久留米競輪場一帯は、陸軍墓地があり、その一角には円形野外講堂が建てられ、今も残っているので現地に足を運びました。ただ、場所が少々わかりにくいですね。 競輪場の駐車場を背中にして左にある小さな山道を進みます。 下の写真では、立ち入り禁止のポールがありましたが、近くにいた駐車場整備員に聞きましたら、車輌の通行禁止であり、歩く分は全然構わないそうです。この道をドンドン進んでいきます。 すると左側に円形野外音楽堂が姿を…
昭和の子どもの頃の時代、豊橋の小学生だった自分は、夏休みの夜中に友人たちと行った公園でやっていた映写会。当時なんと呼んだかもう覚えていないが、野外シネマがあった。多分午後7時ころから始まったんだろう。陸軍墓地の南にある公園で夜映写会が毎年あり楽しみだった。屋台が何軒も立ち並び、雰囲気は最高。子どもの自分も興奮しきりだった。多分チャンバラやエノケンやアチャコの喜劇だったんだろう。夏の夜だから幽霊物だったかもしれない。 映写中、フィルムが古いのか途中で切れて画面がカラカラカラといいながら真っ白になってしまったことが思い出される。白熱電灯の光がつくと周りの人の多さに驚かされるとともに、友人を探す。 …
皆さんは大阪にある真田山陸軍墓地をご存知でしょうか⁈ 心配しなくても大丈夫ですw そう言う僕も今年初めまでその存在はあまり知りませんでしたw 元々僕は靖国神社崇敬奉賛会、千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会の会員で、それに関連したTwitter(X)に関心があり、そんな方々と相互関係で必然的に英霊の尊崇に関する通知が多い状況でした。 そんな状況下にある僕のTwitterタイムラインに飛び込んできたのが、 喇叭乃妖精按ば鳴生兵挙士(らっぱのようせいあんばーせいへいけんし)@ahakiAmber さんの固定ツイート「真田山陸軍墓地」でした。 *以下、親しみを込めて「賢ちゃん」と書きます。 ツイートを見ると週末…
比治山公園の広島市現代美術館に行った後、ついでなので同じ公園内にある放射線影響研究所も見てきた。放射線影響研究所は比治山公園の頂上付近にある日米共同の研究所だ。祖母がかつてこの場所で働いていたという話もあり、興味を持って行ってみた。 kyo-nikki.hatenablog.com 放射線影響研究所 放射線影響研究所は原爆投下後にアメリカが作った原爆傷害調査委員会(ABCC)が前身の研究所である。1975年に日米共同運営に再編されて、現在の放射線影響研究所になっている。 近くに赤と白の電波塔が立っているので、それを目指して美術館から歩いていった。山の中なのでそこらじゅうからセミが鳴いていてうる…
おなじみフウテンの寅さんだ。国民的映画だ。『私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を・・・』の口上は嫌というほど頭に刷り込まれた昭和生まれの人が多かった。このポスターが映画寅さん(男はつらいよ)シリーズの第1作だ。昭和44年に公開された全49作もの映画が制作された。笑顔が多い寅さんだが第1作目はこんなに真剣な目をしていたんだ。 自分自身はあまり映画は見てこなかった。高校・大学と勉強はあまりせずバイトばかりしていた。寅さんシリーズはテレビかレンタルビデオでしかみていない。レンタルビデオ屋は瀬戸にはなく、藤が丘の小さな店に借りに行っていた。1本1000円以上していたのではないだろうか。1日と…
比治山公園陸軍墓地から広島南区を見渡しますと広島湾が臨めます。 そして、旧広島陸軍被服支廠倉庫の全容が見えます。 上からハッキリ見えてます旧広島陸軍被服支廠を見ながら友だちに、 ここを下りたらあそこに行きましょうと言いました。 車窓からでも何度となく見たことある建物ですけど、 今回、車を100円パーキングに止めて散策することにしました。 爆心地から2.7㎞で倒壊を免れた被爆建物です。 広島県が所有する3棟と国が所有する1棟、 2020年8月突然、保存か解体かと話しが持ち上がってきました。 保存するだけの県財政を捻出するのはとても難しいので一棟だけ残すと主張します広島県に対して、 できるだけ全棟…
令和5年8月14日(月)香川県偕行会は、酷暑の中「終戦の日に伴う戦没者追悼行事」を香川県護国神社において厳粛に実施致しました。なお、新型コロナウイルス感染症対策のため、直会(なおらい)は中止致しました。宮司による祝詞奏上、大西邦彦会長による祭文奏上、大塚良和会員による献吟、参加者全員による玉串奉奠を行い、戦禍に斃れた三万五千八百十二柱の香川県出身の御英霊と香川県出身の十八柱の自衛官殉職者の御霊に対し御霊安かれと、お祈り申し上げました。引き続き、乃木神社の参拝、陸軍墓地の清掃、献花・参拝を実施致しました。 (香川県護国神社) (本殿) (宮司による祝詞奏上) (大西会長による祭文奏上) (大塚良…
比治山公園陸軍墓地の近くにひっそりと、 大和神社(おおやまとじんじゃ)の碑があります。 皇紀二千六百年記念 昭和十五年十一月十日建立 とあります。 そして陸軍何某と薄い字で彫られています。 これは何でしょう? ここにお社があった感じはないです。 原爆で倒壊したというのもどこか腑に落ちないです。 ところで、昭和15年11月10日は、どんな日だったんでしょうか? この日は、内閣主催の「紀元二千六百年式典」が挙行されています。 日本国中で神武天皇が即位して2600年お祝いをしています。 それで広島の陸軍でもこの碑を建立してお祝いしたのでしょうか? 碑には何も説明がないので、あれやこれやと考えてしまい…