『なるようになる』96頁 「大学紛争で研究室閉鎖」 養老さんは全共闘の学生から、日常生活と有機的関連のない学問はいらないと言われたと受け止め、解剖の意義を考えたと言います。 「東大で紛争が起きたのは、助手になって二年目だったか、1968年でした。······僕も経験した無給の研修医制度に問題があったことは確かで、団塊の世代の学生の言い分はわかったけれど、みんなで団子になってやる姿勢は違うと思った。······ 僕は助手だから既に体制に組み込まれている。でも、教授会には出られず、決定権は何もないから要するに本当の中立。どっちから見ても、どうでもいいというグループだった。 それがある日、赤門を入っ…