革新官僚とは,内閣調査局が企画庁となり,さらに日中戦争の全面化とともに,資源局と合して企画院に発展する過程で,総動員計画の作成にあたるようになる経済官僚のこと。内閣調査局時代から,企業の所有と経営の分離による公益的統制を主張して電力国家管理案を作成し,その実現に奔走した奥村喜和男(逓信省出身)の活動はその先駆をなすものであり,さらに40年後半の新体制論議のなかで,企画院案として提示された〈経済新体制確立要綱〉は,革新官僚の意図と方向を示すものとして注目を集めた。当時,革新官僚とは,岸信介商工次官,星野直樹企画院総裁ら,すでに満州国での経済統制の経験をもつ高級官僚と企画院の実務を担当している前記の奥村や,美濃部洋次(商工省出身),毛里英於測(大蔵省出身),迫水久常(大蔵省出身)らの中堅官僚をひとまとめにした呼称として使われている。
革新官僚によって作成・推進された〈経済新体制確立要綱〉のモデルは,世界恐慌の中で驚異的な成功を収めたソ連の第一次五ヵ年計画であり,それが〈革新〉の名で叫ばれたのであった。この〈革新〉性は財界・右翼からの強い反発によって一定の後退を余儀なくされ,例えば企画院事件(1941)に共産主義の赤化思想の影響ありと財界・右翼から攻撃された。〈経済新体制確立要綱〉原案作成者の和田博雄のように革新官僚の多くは戦後、左翼になった。
第一稿は「ネットで百科」より。