国語教科書を、古文や漢文のそれと区別するために、現代文と呼ぶことがある。現代日本語の文章だから、現代文なのであろうか。そのまんまで芸がない。 文章は、読み手が一読してたちまち理解させるように書くのが、書き手の義務である。ああでもない、こうでもないと、文章をひねくり回さなければ、何が書いてあるかが、さっぱり不明な文章は、そもそも、読む価値がない。とはいえ、試験がある。 難解とされている「文章」を、読み解くには、ある種の能力が必要であるから、その能力の有無、大小を測って、より潜在力の高い人材を求める、というのが建前である。これを、俗に、頭がよいと言う。ならば、現代文読解の試験は、頭の良し悪しを測る…