高木 兼寛(たかぎ かねひろ、嘉永2年9月15日(1849年10月30日) - 大正9年(1920年)4月13日)は日本の海軍軍人、医学者。男爵。東京慈恵会医科大学の創設者。
脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれる。
薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷(現宮崎県宮崎市高岡町)に生まれ、戊辰戦争の折には薩摩の軍医として従軍した。
明治5年、一等軍医副(中尉相当)として海軍入りをした。
海軍病院学舎教官の英海軍軍医のアンダーソンに認められ、明治8〜13年の間イギリスに留学をした。
当時の日本では、理論先行のドイツ医学が主流だったが、臨床を重視するイギリスの医学に触れたことは、その後の高木の生き方に大きな影響をもたらした。
帰国後の高木は、海軍医務局副長に就任し、脚気の撲滅に本格的に取り組んだ。
高木は、患者の食生活から、脚気の発生にはタンパク質の不足が原因であると判断し、海軍の食生活の改善と、洋食の採用に取り組んだ。
明治16年には23.1%だった海軍の脚気発生率は、明治18年以降は1%未満に低下した。
明治18年、高木は大日本私立衛生会雑誌に自説を発表したが、当時の日本の医学界では根拠が薄弱として一蹴された。
食物不良ならば、身体が弱くなり全ての病気になるはずなのに、脚気だけにかかるのは不自然だと言うのだ。
実際のところ、脚気はビタミンB1の不足により引き起こされるものであり、タンパク質としたのは誤りだった。
高木も明確な反論をする事が出来ず、6回にわたって、海軍における兵食改革を公表した後は、反論をせずに沈黙をした。
高木の説は誤りだったものの、海軍における脚気患者の減少がなされたのは事実であり、のちにオリザニン(ビタミン)を発見する鈴木梅太郎もまた、糠と麦と玄米に脚気を治療する成分がある事を認識しての研究を行っている。
医学が手探りをしている段階で、高木は実践的な治療法を採ったのである。
ほか、東京慈恵医科大学を設立し、宮崎神宮の社殿の改装のための寄付を全国から集めるなど功績をあげている。