高杉晋作

高杉晋作

(社会)
たかすぎしんさく

生い立ち

天保10(1839)〜慶応3(1867)年。
幕末長州藩の上士の家柄に長子として生まれる。父・小忠太は真面目で忠義に厚い人であったらしく、藩の要職を歴任している。
少年時代の高杉は学問よりも剣術に熱中しており、実は柳生新影流免許皆伝の腕前である。とはいえ、同じ藩の桂小五郎同様、人を斬ったという話はない。
学問は小学部から藩校・明倫館に学び、大学部時代には居寮生となったりもしている。
高杉の学業成績については、文学作品や歴史読み物を見る限り、意見がまっぷたつに分かれる。ライバル・久坂玄瑞と首席の座を争っており、藩主、あるいは世子に御前講義を行なったほど優秀であったとする説。そして、頭は良いのに学業成績はいまひとつ、という説である。
黒船来航の頃*1には父に同行して江戸へ行き、危機意識を持ったようである。

松下村塾

安政4(1857)年の終わり頃から、吉田松陰の松下村塾に入門。しかし松陰を危険視していた父により、塾への出入りを禁じられ、夜間、密かに塾へ通ったという。
師・松陰は高杉を“有識の人”と見込むも、あまり学問を好まず、独善的な解釈をする悪癖を矯正するために、ライバルの久坂を持ち上げて、高杉の競争心を煽ったと言われる。この頃から書物を読み漁り、学問にも真剣に取り組むようになったようだ。
もともと才覚のあった高杉はやがて、松下村塾の【四天王】*2とも、久坂と【双璧】とも称されるようになる。
だが、安政の大獄が始まり、松陰の思想や言動が狂気を帯び始めると、身分の高い彼はしがらみも多く、親思いでもあったため、他の塾生たちのようには師についていくことができなくなった*3
とはいえ、師を思う気持ちをなくしたわけではなく、松陰が野山獄に囚われた際には、江戸から頻繁に文を書き送ったり、牢番に賄賂を贈ったりしていた。

上海視察と志士への転身

幕府の公使としてヨーロッパ視察を望んでいた高杉であったが、それは叶わなかった。代わりに、上海への幕府の視察団には長州藩代表として加わった。
上海で列強の食い物にされている清の惨状を目の当たりにした高杉は、たとえ親不孝をしてでも日本を変革するために奔走する決意をする。尊攘志士・高杉晋作の誕生である。
彼は松陰門下の仲間達と御楯隊を結成し、文久2(1862)年12月には英国公使館焼き討ちを決行する。
久坂玄瑞、伊藤俊輔*4、井上聞多*5などが同行した。
しかし翌年、突如として藩に10年の休暇願いを出し、出家・隠棲して“東行”と号した。この行動は、周囲にますますエキセントリックな印象を与えたらしい。

奇兵隊

高杉が隠棲して半年も経たぬ内に、藩は再び彼を呼び戻す。長州藩は朝廷が幕府に出した攘夷督促を実行したため、高杉の才を必要としたのであった。
彼は武士だけで構成される正規軍に対し、下級武士や農民など、身分によらず能力とやる気を重視したゲリラ部隊、奇兵隊を結成した。
しかしながら、正規軍は身分の低い奇兵隊を侮蔑していたし、奇兵隊士たちは大した実力も持たない正規軍に従う気はまったくなかった。両者の間の溝は深まり、ついには衝突。奇兵隊の生みの親である高杉は、奇兵隊を侮辱した正規軍に殴りこみをかけるという事件に発展(教法寺事件)。事件の責任を取って、高杉は奇兵隊総督を解任される。
高杉が去った後の奇兵隊の中心となったのが、山県狂介*6や赤根武人らであった。
だが高杉は、孤立無援の中、クーデターを決行し、藩の世論を討幕に向かわせる。

*1:数え17歳。同じ頃、吉田松陰は黒船に密航しようと企てていた。

*2:他に久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一

*3:山田市之丞(顕義)なども同様であった。

*4:のちの伊藤博文。

*5:のちの井上馨。もっとも、彼は松下村塾生ではない。

*6:のちの山県有朋

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