1.高句麗の別名。この場合、日本では「こま」と呼ぶ。
2.朝鮮半島に有った国(918年〜1392年)
唐滅亡後、朝鮮半島の政情は不安定となり、新羅では反乱が多発するなど不安定な状態であった。そのうち、新羅の王族である、弓裔の立てた後高句麗(894年〜918年)と、百済の在地勢力を糾合した後百済(892年〜936年)が台頭し、後三国時代に入る。
後高句麗の将であった、王建は、後高句麗を乗っ取り高麗を建国(918年)、935年新羅を滅ぼし、936年には後百済を滅ぼし、朝鮮半島は再統一される。
首都は、開京。
仏教を国教とし高麗仏教の文化が花開いた。
この時代の文化としては高麗仏教の鐘楼、印刷仏典(大蔵経)、高麗青磁などが有名。
政治は、文臣(文班)と武臣(武班)を官僚とする両班(ヤンパン)制度を導入。しかしながら、文臣と武臣の対立が続き、一時期、武班による政権が続く(崔氏政権など)。その後、モンゴル軍の侵略が始まり(1231年)、断続的に繰り返される。1259年降伏。これによって武班勢力は完全に押さえ込まれる。しかし、一部の武臣達はモンゴル支配に抵抗し、この抵抗は1270年まで続く。(三別抄の反乱)
また、元寇に参加し、二度日本へ侵略するが失敗(1274年 文永の役、1281年 弘安の役)する。この時期、高麗王の廃嫡権は元朝が握っていた。
元末期になると、倭寇(前期倭寇)と中国の紅巾軍の進入により弱体化し、王朝は求心力を失う。代わりに地方の両班勢力が台頭し、1392年李桂成(李氏朝鮮の太祖)によって滅亡する。