戦国時代の武士。諱は勝商(かつあき)。(1540年〜1575年)
奥平貞昌(のちの奥平信昌)の配下の一足軽で、水練の名手だったという。
1575年、貞昌が籠城する長篠城が武田勝頼軍に包囲された際、敵陣の目をかいくぐって岡崎城の徳川家康に援軍要請の使者として向かい、援軍の確約を取り付けて*1帰城しようとしたが、警戒された武田軍に捕らえられる。
武田軍は「援軍は来ないと城に告げれば仕官させる」と強右衛門を揺さぶったものの、彼は「援軍は必ず来る」と城兵に告げ、そのため処刑された。享年36。
その後長篠城が援軍到着まで持ちこたえ、織田・徳川軍が武田軍に大勝したこともあり、貞昌改め信昌は彼の遺児を手厚くもてなしたという。
*1:ちょうどその時、家康は織田信長の軍勢と供に、長篠に向かう途上であった