五世中村富十郎は文字どおり比類のない名優であった。たんにうまい役者だというのではない。声のよさ。セリフの明晰さ。折り目正しい踊りの所作の美しさ。そこに高いクオリティをたもちながら、いずれもが「富十郎らしさ」に満ちた誰にも真似のできない独特なものであったからだ。晩年は播磨屋の一座に身をおくことがおおく、吉右衛門と組んだ名舞台をたくさん残した。二十世紀もまもなく終わろうかというころ、六十九歳になったこの富十郎に跡継ぎが生まれた。歌舞伎ファンに「大ちゃん」と呼ばれて親しまれたこの跡継ぎに、富十郎は二十歳になったら富十郎の名跡を継がせたいと熱望していたらしい。だがその日をむかえる前に富十郎は他界し、そ…