貞享4年8月中旬。川口六左衛門子半右衛門が召仕を手討ちにする。
貞享4年8月中旬。小見山九右衛門の取立者とこの春から召し抱えた若党が喧嘩する。若党が取立者を切り殺し立ち去る。巾下薬師近くの堀に長持ちがひとつあり、中には月代(額から頭の中央まで剃ったこと)の体、外には筵1、2枚、屏風1双、障子2枚があった。これは九右衛門のところで切られ、死体を請人に渡したところ捨ててしまったのかと云々。
貞享4年8月。近頃、濃州斎藤村の斎藤寺住持不立が所から追放となったが、公儀へ訴え出てやって来ると云々。斎藤寺の前住は、明智光秀の弟であった。光秀が山崎の合戦で死んだというのは偽りであり、後に斎藤村の百姓を装い、その子は荒福又五郎という者であった。その又五郎の子が今の住持であると云々。信長及び太閤からの光秀への書、ならびに吉光の太刀、貞宗の小脇差などをいまだに不立が所持していると云々。