なんというか、30歳やら40歳にもなると、脈絡の無い生き方というのが難しくなってくるようだ。どれほどぶっ飛んだ言行を繰り返そうが、どこか拭いきれない倫理観がある。それは外的に規定される私が、内的に規定される私とに生じる齟齬を、無意識か有意識で認めていくということなのかもしれない。 バタイユの『有罪者』が好きでよく読むが、わざと散らした文脈の中に、散らしきれなかった哀愁が感じられて、それがこの本を悲愴たらしめているように感じる。例えば、この本にロールのことがあけすけに書いてあったらば、そこまで悲しい書物にはならなかったかもしれない。或いは、アセファルの企てが潰えたことが書いてあったらば。────…