小倉に落ちるはずの原爆

一条真也です。

8月9日になりました。
65年前に長崎に原爆が投下された日です。
わたしにとって、1年のうちでも最も重要な日です。
わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。
小倉とは何か。それは、世界史上最も強運な街です。なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずだったからです。



              8月8日付「朝日」「毎日」「読売」朝刊広告


長崎型原爆・ファットマンは65年前の8月6日にテニアン島で組み立てられました。
8日には小倉を第1目標に、長崎を第2目標にして、9日に原爆を投下する指令がなされました。9日に不可侵条約を結んでいたソ連が一方的に破棄して日本に宣戦布告。
この日の小倉上空は視界不良だったため投下を断念。
第2目標の長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。
この原爆によって7万4000人もの生命が奪われ、7万5000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでおられます。



もし、この原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていたか。
広島の原爆では約14万人の方々が亡くなられていますが、当時の小倉・八幡の北九州都市圏(人口約80万人)は広島・呉都市圏よりも人口が密集していたために、想像を絶する数の大虐殺が行われたであろうとも言われています。
そして当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。
よって原爆が投下された場合は確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。



死んだはずの人間が生きているように行動することを「幽霊現象」といいます。
考えてみれば、小倉の住人はみな幽霊のようなものです。
そう、小倉とは幽霊都市に他ならないのです! 
それにしても都市レベルの大虐殺に遭う運命を実行当日に免れたなどという話は古今東西聞いたことがありません。
普通なら、少々モヤがかかっていようが命令通りに投下するはずです。
当日になっての目標変更は大きな謎ですが、いずれにせよ小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。
その意味で、小倉ほど強運な街は世界中どこをさがしても見当たりません。
その地に本社を構えるわが社のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないことだと、わたしは確信しています。



小倉の人々は、原爆で亡くなられた長崎の方々を絶対に忘れてはなりません。
いつも長崎の犠牲者の「死者のまなざし」を感じて生きる義務があります。
なぜなら、長崎の方々は命の恩人だからです。
しかし、悲しいことにその事実を知らない小倉の人々も多く存在します。
そこで長崎原爆記念日にあわせて、サンレー北九州では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」の3大全国紙に意見広告を掲載しています。
今年は9日が休刊日に当たるので、8日に掲載しました。
しかし、広島の原爆記念日は各紙トップ扱いで、国連事務局長まで来ました。
一方で、長崎の原爆記念日は休刊日ですか?
これまでも広島と長崎の扱いの違いには違和感を持っていましたが、せめて2つの原爆記念日とか終戦記念日などの重要な日の休刊日はずらすべきではないでしょうか。
何よりも、国民に平和の大切さを訴える最大の機会ではないですか。



今朝の本社朝礼では、例年通りに、わたしは次の短歌を詠みました。
「長崎の身代わり哀し 忘るるな 小倉に落つるはずの原爆」
そして、社員全員で黙祷を捧げました。
死者を忘れて、生者の幸福など絶対にありません。
長崎の原爆で亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。


         「長崎の身代わり哀し 忘るるな 小倉に落つるはずの原爆」 

                   全員で黙祷を捧げました               


2010年8月9日 一条真也