人生が無意味なら 社会に存在意味はあるのか?

昨日の補足込みの続きです。

人生の意味なんて本質的に存在しないと昨日断言してしまったのですが、些か誤解を孕みそうなので幾つか補正を。

まず、physさんから同日のコメント欄にて、このようなコメントを頂きました(一部抜粋)。

自分がいろいろな偶然の重なりでこの世に生まれ落ちて、そしてなんだかいろいろなことを考えたりしているらしい。そういう一応事実と呼んで差し支えのなさそうなことがあって、そこから自分が何をすべきなのか、何ができるのかを考えるのは自然なことだと考えます。そして、それを考えるために根っこをたどっていくと、やっぱり生と死の問題は避けられないのです。

人間が物に意味を与え、出来事に名前を与える他に情報を理解・把握する術を持たない以上、人生という事項に対しても意味を与えようとすることは極めて自然なことです。寧ろ私達は、「意味の無いもの」に対して潜在的に恐怖を感じるといっても良いのですから、何の目的も無い人生や無意味な人生に対して恐怖していると言えるでしょう。また、目的を設定することで人生を有意義なものにしたいという発想は否定できるものでは在りません。

ですが、恐怖からの逃避の産物であろうとよりよい人生の実践の為であろうと、人生自体が意味を持っているのではなく人生に私たちが意味を与えているのだと言うことを意識しておくことは大事なのではないかと思います。人生の目的に対しては、まやかしではあるが有効である という向かい合い方をすべきではないのでしょうか? と言うのが私の見解です。その上で、昨日のエントリではまやかしに耽溺してしまうことの愚を説いたつもりです。

さて、閑話休題

michiakiさんからトラックバック頂いたので、紹介ついでに考察を。

当該記事では、個体としての人間の人生に意味が無いのであれば、その集合から構成される社会が存続することに意味はあるのか? との視点から考察を進められています。

私の見解を述べるとするならば、意味はやはりありません。はい。

存在そのものの意味なんてものは存在しないものです。少なくとも先天的には。意味は見出すものです。定義者と定義対象と解釈者とが揃って初めて意味は生まれるのです。定義者と解釈者は定義を作りうる存在であることが必須です(別に同一でも良い)。

以上より、社会にとっての社会の意味、世界にとっての社会の意味なんてものは、先天的に存在していたりはしないですし、また定義者の存在を排除する事も不可能です。「それって貴方が勝手に言ってることでしょう?」と言われてしまえば凡そ世の中の全ての定義・意味は無意味と等価ですしね。単に言語ゲームで権威付けがされているだけなのです。

さて、このようにして「社会の存在する意味」も含めて全てを無意味に帰すことが出来るのですがこれは直ちに存在が全否定されうると言うものでもありません。

生きる意味がないというのは、死んでしまうべきだと言う主張と等価に扱われがちですが、私が主張したいのはそう言うことではありません。存在が無意味であると言うことは、価値がないということですらないのです。価値がないという判断すらない という事なのです。

生きることにも意味が無く、死ぬことにも等しく意味が無い もっと言えば全ての「意味」と言うものは凡そ全て私たちが営々と拵えて来ただけの物であって、本質にはなり得ない単なる道具に過ぎないものであるということです。

要は社会は生きるべきであるから生かされていると言うよりは、社会は今まで滅ぶだけの要素が無く、また社会を延命させようと言う人々の行動の結果から生き延びてきた と言うべきなのではないでしょうか? 経緯が其処にあって、だから今まで存在しているだけなのでしょう。

一切には経緯はあっても必然性は存在しない と、そう言う事であろうと言う気がします。

これに反意のある方は、是非次の質問をお考え頂きたい。
「この世に物質が存在する意味・理由とは何ですか? 物理学的経緯・宗教といったものを論拠とせずお答えください」


■追記■

前述の質問に条件を追加。

定義者と定義対象が何者であるかをまず定義してください。定義者は定義を作りうる存在であることが必須です。解釈者は記述された定義を読む全ての読者とします。