絶叫機械

造形する脚本家、麻草郁のブログ。

「エンタテインメント」は免罪符ではない。

要約:映画は娯楽であるべきだ。しかし、政治的テーマを扱った映画の場合は、そのテーマを含めた思想そのものが娯楽の対象である。よって、含まれる「政治的テーマ」もしくは「思想的テーマ」を楽しめないならば、それは映画を楽しんだことにはならない。映画を楽しむためには、政治的偏向を捨て去るべきである。
 先日のエントリで話題にした『ホテル・ルワンダ』を見ても差別がやめられない方が、またもや考えるための材料を提供してくださった。

 私自身は、映画鑑賞後に、町山氏の書いたパンフレットの文章を読んだことで「ホテル・ルワンダ」という素晴らしい作品の印象が、多少なりとも損なわれてしまいました。他の人はどうだか知りませんが、私はそうだった、というだけの話です。
(中略)
 それでも「ホテル・ルワンダ」という映画は、良い作品だったと思っています。
 私は映画はエンタテイメントでしかない、と思っています。料金を支払い、支払った分の何か・・・(感動、涙、笑い、なんでもいいですけど)を得られれば、それでよいと思っています。そしてその受け取り方は、人それぞれで良い、と考えています。
http://blog.livedoor.jp/mahorobasuke/archives/2006-02.html

 ここで、新たな思考燃料が投下されたので引用、反証したい。

何かの役に立つと思って映画を見せたがる大人のことを「やっぱ人間って、歳をとると馬鹿になるのかね?」と思ってたあの頃(いつ?)の気持ちを思い出そう! 「ホテル・ルワンダ」を観賞して感動するのは、最初からその主張に共感するところのある人だけでしょう。だから、嫌韓の人は、嫌韓の心情に影響しない形で都合よく感動する。それだけのことです。
映画の力と馬鹿な大人

 これこそ馬鹿な大人の典型みたいな意見に見える。それはなぜか。この意見の何が変かを知るには、コピペ改変がもっとも適当だろう。

本当に怖がろうと思って映画を見たがる大人のことを「やっぱ人間って、歳をとると馬鹿になるのかね?」と思ってたあの頃(いつ?)の気持ちを思い出そう! 「エクソシスト」を観賞して怖がるのは、最初からその主張に恐怖するところのある人だけでしょう。だから、無神論の人は、無神論の心情に影響しない形で都合よく怖がる。それだけのことです。

 ああ厨房。何がそれだけのことか。そもそも何かを見るということは、その何かから影響を受けたいと熱望することに他ならない。テレビ、広告、小説、映画に限らず、あらゆる媒体はあなたを変化させる。それがわかっているから、テレビを見るの見ないのと議論をするのだし、おれたちは「嫌なら見なきゃいい」という言葉を使う。
 変化したくない場合、もしくは「何らかの価値観を奉じて、信じて、感動して、裏切られて、恨んで、愚痴って、憎んで、抑圧」したい場合は、もはや他の価値観を提示する作品には接しない方がよろしい。しかしひとは自らの価値観とは相容れない映画を見て文句を言う、徳保氏のように「映画ひとつ見て価値観が変わったなんてウソに決まっていると思っていい。」と意見したがる。なぜか。
 既に変化は起こってしまったのだ。声を荒げて「変化など起こらない」と主張せねばならぬほどに、それは強いちからを加え、刻印を残した。
 あわててパンフレットに書かれた町山氏の文章から、瑕疵を見つけなければならないほどに、恐怖したのだ。自らの信奉が揺らぐことに不安がなければ、なぜその対象を誹謗中傷せねばならないのか。
 おれならば揺らぐ、信念の補強を願う。変化など起こらないという主張には声を荒げて反論する。それが「変化は起こる」ということの立証になるからだ。
 映画はエンタテインメントでしかない、もちろんその通り。だが、エンタテインメントとは、消耗品のことではない。あなたの人生に影響を与え、変化させ、ときには憎しみの対象となり、ときには愛情の対象となる、一個の生命体だ。
 そうだ、映画をカレーライスだと思えばいい。例え話をしよう。

 きみはカレーライスを食べた。
 とてもおいしいカレーだった。そこで隣の席の韓国人がきみに言った。
「これはとても良いカレーだ、人生もカレーのように具とルーが渾然一体となってとろけるべきだ、差別はよくない、そう思いませんか?」
 ところが、きみは人種差別主義者で、韓国人は日本から出て行くべきだと考えている。
「そんなことはない、私はこのカレーをおいしいと思ったのに、あなたの一言で台無しです、あなたは韓国人だからそんなことを言うんだ」
 男は反論する。
「いや、私はカレーについて話しているのであって、韓国人であるかどうかは関係ない。このカレーはあなたの人生に影響を与えませんか?」
 きみは言う
「カレーで人生は変わりませんよ、受け止め方は人それぞれでいいと思います」
 その店には「人生とはカレーである、差別してはならない」と大きく書かれている。
 店主は、きみの言葉をどう受けとるべきだろうか。

 まあ、おれはそんなとき「レトルト食ってろ」と思うわけだが、それを口にはしない。なぜならカレーを食う権利は万人が平等に持つべきだという信念があるからだ。
 「エンタテインメントだから意味がなくていい」「エンタテインメントだと思ったからどうということはない」「こんなものは、たかがカレーだ、気にするな」
 ならば、なぜきみは、反論したのだろうか?それは、そのカレーがおいしかったからだ。そのカレーに人生を見たからだ。きみはカレーのテーマに共感したのだ。だが強固な信念はその感動を台無しにした。
 それは、隣の席の男が悪いのではない。きみが悪いのだ。きみが自分の心をないがしろにしたのだ。信念に従って、自分を殺したのだ。
 自分の心を侮辱してはならない。
 きみにそんなことをさせる信念を、信念そのものを、おれは憎む。

差別の本質?問題のすり替えテクについて。

音極道茶室: 『ホテルルワンダ』エントリーの真意について(補足)
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000139.html
を読んだ方からの、ツッコミを紹介しつつ、ふしぎテクニックの解説です。

つまり、差別とはこういうもののことを言うらしい。
* 他人のことを自分よりも「愚か」だと決め付け、その愚かさを攻撃(あるいは、教育)する行為
* あるいは、その背後にある優越感や侮蔑心
え!?それって、「差別」なんですか?
(中略)
優越心とか侮辱心とかって、一見、差別感情に似ているかもしれないけど、虐殺を引き起こすほどの憎悪を生むのかな。社会全体で乗り越えなければいけない課題なのかな?この辺のつながりが良くわからないです。
id:hiro_co_yn:20060227:1141018141(id:kanose:20060227:uneasinessより)

 優越感や侮蔑心というものは、差別の下位概念です。それが発生するのは、じっさいには優れておらず、侮蔑する根拠がない場合です。じっさいに優れているときは優越度を示す必要がありません。だから引用先には

その中で、自分より明らかに「愚かな」人間を見つけて「攻撃」する時、そこには「自分はここまでバカじゃない」という優越感と、その人間に対する侮蔑心が必ずあるはずです。
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000139.html

 と書いてあります。その中に、ね。そんでこの「必ずあるはずです」という根拠のない決め付けこそが、優越感というものの正体です。
ふしぎテクニック:ひきずりおろし
 「ひきずりおろし」と言うふしぎテクニックがあります。問題を一般論に還元し、その正体を隠す技のことです。この問題の記事は、差別の下位概念である「優越感」「侮蔑心」を差別と同列にすることで「そんなに騒ぐことかな」と批判しているわけです。
 ただし「ひきずりおろし」はテクニックとしては基本なんですが、普通は罵声を浴びせた当人が「おれはそんなつもりで書いたんじゃない」と言い訳するときに使うものなんですね。ですから、あまり他人の議論を貶めるのに使っていると、使った本人の話の価値も下がり、しまいには誰も聞いてくれなくなるので気をつけましょう。
 ちなみに憎悪がなくても虐殺は起こるというのが、恐ろしさの本質です。
 殺さなければ殺すという状況になったときに、殺さずにいられるかどうか。その問いかけをできるようにしましょう、そして社会状況が殺す方向へ向かわないように努力しましょうというのが、いわゆる死なないためのシステムづくりという奴です。
 ていうか、戦争だって相手が憎いからやるわけじゃない、土地や金が欲しいから殺すのです。ひとは殺したいときに殺したい相手を殺すのであります、何かと理由をつけてね。
 そんな「いつか殺すための理由」は必要ないでしょう。
 そのシステムを信頼するひとが賛同者を増やしたいのはなぜか。そのシステムが、賛同者が少なければ機能しないシステムだからです。これを「三方一両損システム」と言います。

サブカルチャーがポリティクスと結びつくことへの不信感

要約:政治的メッセージを含んだ作品から政治的メッセージを排除することは、バランス感覚ではなく単なる怠惰である。ホラー映画やアクション映画と同じく、政治映画も一ジャンルとして認め、その上で作品のよしあしをはかろう。
 

ぼくとしては、映画の政治的テーマをそんなに映画のエンターテイメント要素と直接的に結び付けていいのかと考える。なぜなら、サブカルチャーがポリティクスと結びつくことへの不信感というのは、ぬぐえないからである。
戦時下において、ディズニーのアニメーションは一種の軍需産業だったことを知っているだろうか。
(中略)
エンターテイメントと政治的メッセージを切り離さず、そのようなことを考慮にいれないで真に受けるということは、いついかなる時もファシズム的リスクが付きまとう。たとえ、「ルワンダ」であろうと、そういうこと考えずに鵜呑みにするのはどうだろうか、とやはりぼくは考えてしまうのだが。
id:VanDykeParks2:20060227:1141036462

 誤解を恐れずに書くと、おれはディズニー映画のファッショなところが大好きだ。そうじゃないところも大好きだけど、政治的なメッセージはそのまま受け取るべきだ。
 なぜなら、同じ頃に、戦意高揚映画を作れと言われたワーナー・ブラザーズが作った戦意が高揚しないアニメもまた、政治的偏向に疑問を提示する、という政治的意図によって作られた作品だからだ。
 おれはどちらのアニメにも良いところと悪いところがあると思うし、そのよしあしを政治的な偏向がどちらを向いているかで決めることが、バランス感覚だとは思わない。そんなものは今の日本が交戦状態ではないから言えるのだ。お前銃を突きつけられたときに平和万歳と叫べるか。
http://youtube.com/watch?v=06GP_Da2npU&search=bugs-bunny%20%20war
 戦意を高揚させないで、最後に「ワオ!女だ!」と叫ぶバッグス・バニーがかっこいいのは、それが戦時下に作られたアニメだからだ。平和ではないのに「みんな死んで静かになってしまった!」と叫ぶからかっこいいのだ。だから、戦時下に生まれた政治的な作品を、戦時下であるという意味を無視して見るのは、怠惰だと思うのだ。
 もちろん、そこで教科書的に「メッセージが!」と言うのはもっと野暮だ。政治的な映画におけるメッセージ性というのは、ホラー映画が怖いのと同じくらい描かれていなければいけないものだからだ。
 以前『ランド・オブ・ザ・デッド』という映画に対して書かれた、こんな文章がある。

「時代を映す鏡」って言ったって、面白いものもあれば、つまらないものもある。それなのに「時代を映す鏡だから素晴らしい」と言ってしまっては、まるで映画として面白くないみたいじゃないか。
(中略)
 ゾンビ映画を観るときは、現実のことなんて知らなくていいと思う。スクリーンに映るその事件に遭遇して、恐怖すればいいのだ。そして映画館を出て、周囲の風景が何かおぞましい正体を隠していることにさえ、気づけばいい。
 映画を観終わったあとで「あなたの心には何が残りましたか」なんて訊かれてもぼくには答えようがない。物語の中で描かれたものは全部残っている、だがそれがどうした?素晴らしい映画を観たからって、おれが素晴らしくなれるわけじゃない、こんな質問をされてすぐに答えが出せる奴は、きっと素晴らしい奴に違いない。
id:screammachine:20050711#p1

 こんな文章がある、っておれが書いたんだが。このときはこれが、ゾンビ映画なんだから、政治的なメッセージよりも、ゾンビが描かれているかどうかが問題なんじゃねえの?と思ったわけだ。これが政治的メッセージありきの映画で逆になってなぜ悪いのか。映画というものは、あるレベルを越えた部分では、自由に見られるべきだと思う。ジャンルとか、製作者側の意図する方向性を無視した自由が認められていいわけがない。
 ダッシュさんは真面目で頭が良すぎる。だから「政治的意図を観客全員が理解したうえで、見終わったあとに選択できる」という状況が頭に浮かばないのかもしれない。って浮かぶのかおれは。浮かぶ、観客全員が映画文法を理解したうえで、好きか嫌いかを選ぶことのできる世界。おれ、夢、見すぎか?