甘き死よ、来たれ
19世紀末(〜20世紀初頭・両大戦間の頃まで)ウィーン文化のことが頭を離れない。
マーラーの誕生日(1860年7月7日)にちなんで気になりはじめた検索テーマである。
なかでもムージルの『特性のない男』について検索を重ねる。
そうこうしてパソコンをいじってるうちに、やるべき作業の優先順位は乱れに乱れ、そもそもの本題がはかどらぬ。嗚呼。
『特性のない男』のあらすじを紹介した読書ブログを閲覧する。
あらすじを読んでいるうちに、ボルヘスの短編「会議」(『砂の本』所収)は、『特性のない男』の凝縮・完結版だったのかも、と思いが及ぶ。
そして同ブログに引用されていたユーチューブ動画に見入る。
新世紀エヴァンゲリオン(テレビ放映版と旧劇場版)の日常シーンを、旧劇場版 ('97) 劇中歌「甘き死よ、来たれ」に乗せて再編集した、3分半ほどの映像。
日常的映像。断片的でしかない日常感覚。カットアップやフラッシュバック。繋がりと重なり合い。
ポップにしてメランコリックな、日常という祭りの、侘しさをともなった回想の味わい。後の祭りににじむ味。
僕が映像編集のやり口を身につけるきっかけは、このエヴァンゲリオンの日常描写の取り扱い方だったんだろうな。
14年前、「何か」わからない途轍もない衝撃を受け、突如として現代文明は崩壊した。(その影響により東京は水没し、日本政府は箱根山地に「第三新東京市」なる要塞都市を建設している)
その大変な時代の変化を多感な少年期〜青年期に被った世代は、ドラマの中ではおおよそ20〜30歳の青年たち。
主人公たちは14歳の中学生。「何か」が起こった年に生まれ、「何か」自体は憶えていない。その後の異常な社会を日常として人生を刻んできた。
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、そんな異常な日常のなかのホームドラマ。
逃れ去る「普通」と「家族」との枠型への憧憬。
そして「暴力」という形でしか果たされなかったそれらへの関わり合い。
あの90年代に響き続けていたやるせない基調低音が、今にして鮮やかに蘇ってきた。
パランプセスト、重ね書きの羊皮紙。
20世紀初頭のウィーンと、21世紀初頭の東京と。
二つの時代の変わり目が僕の中で、ムージルの未完の長大小説『特性のない男』へと焦点を結びはじめる。