『生命学に何ができるか』

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

沖縄から戻ってから、森岡正博著『生命学に何ができるか』(2001年)を読んでます。
だいぶ読み進んで、いま第6章の「障害者と「内なる優生思想」」の途中です。
歴史的には、70年代前半の社会運動(この本で語られてるのは、ウーマンリブと障害者運動だけだが)は、やはり日本の運動史の中では突出したものを持っていたなあと思う。これには世界的な新左翼の運動・理論の影響も大きかったと思うけど(森岡さんが、海外の反植民地主義や反差別運動などについてどう評価してるのかは分からない)。
森岡さんの生命論については、生命というものと規範的なものとを対立的に考える傾向があるのではないかという点が、疑問である。


だが僕にとっては、第5章の「「暴力としての中絶」と男たち」で語られる「男たちの生命倫理」ということ、そして、自分にとっての「内なる優生思想」ということが、やはり重大だ。
自分が生きているという事実にたいする冷淡さが、自分にとっての「内なる優生思想」であり、それは仕事や生活上のことや、ずっと独身だということ、対人関係にも、すべて関わっているのだと思う。
それに向き合うところからしか、反差別も反戦も成り立たないということを、この本は教えてくれる。
ところで、一か所だけ引用。

こうやって考えてみると、中絶という暴力は、現存の国家経済体制を背景としたジェンダー間の非対称で錯綜した権力関係の合間を縫って行使されることが分かる。そして、様々な権力関係のなかでの利害の押しつけあいを経て、結局のところいちばん力を持っていない胎児が暴力の最終的な餌食になる。(p261)

とくにここを引いたのは、これは僕が沖縄のやんばるに行って感じたことと同じだからだ。
いちばん弱いところが餌食になる。これが今の世界の実態であり、日本の沖縄支配の本質でもある。
いちばん弱いところ、それが沖縄、ひいてはやんばるであり、やんばるとは胎児なのだ。
その暴力の行使を、僕の「内なる優生思想」が支えている。