フォンセレ


建築家をさしおいて、一介のマエストロ・デ・オブラスであるフォンセレがこのコンペを勝ったというのはガウディを引き付けるものがあったのではないか。当時は今以上に建築家の世間的な地位は高く、建築界での言わば技術屋である、マエストロ・デ・オブラスがこれを負かしたのである。ガウディ自身もしがない釜師という社会的な地位もない、素生の知れない人間であった。ここに何かを感じさせるものがあったには間違いない。日誌中にも建築家であるビジャールよりも、一介のマエストロ・デ・オブラスのフォンセレを尊敬している節が書き込まれている。
フォンセレ(Josep Fontserè i Mestre, 1829 〜1897年)の父のフォンセレ・イ・ドメネクはJosep Fontserè i Domènech (1799-1879)はリウドームスあるいはVinyolsの出身で、大工であり建築家のタイトルもっていた。建築家としては南カタルーニャでいくつかの宗教建築を残しているが、市壁取り壊しの1853年には バルセロナ市役所の市域拡張のコミッショナーを務めて、市の建築家として行政からも仕事を残している。
フォンセレはこういう父を持ち、兄弟ともマエストロ・デ・オブラスの道を選んでいる。このタイトルは現在使われていないが、ひと口で言えば建築家が設計を主に職種としているのに対し、こちらは工法、材料、あるいはディティールなどの実務に精通し、特に建設の現場に直接かかわる職業で、スペインでは中世からこのタイトルは存在し、近年まではアパレハドールと呼ばれ、現在では技術建築家のタイトルが存在している。フォンセレはシウタデーリャ公園を残しているが、実際にはこのマスター・プランといくつかの建物を実現させているだけだが、その他にもサマ公園Parc Samà(1881年着工)などの興味ある作品を残している。明らかに純然たる技術屋ではなかったことがわかるが、同時に当時のヨーロッパの一般的な風潮であるボザールからはかけ離れた作品を残している。
サマ公園


これはキューバに移民して巨財を築いた人物が故郷に作った、植物園。それにしても、この洞窟と言いどこかガウディと繋がるところがありそうだが、分かっていない。シウタデージャ公園の建設と同じ時期であるので、ガウディがフォンセレを助け設計に携わった可能性はなくはない。