『レッツ・ゲスト・ロスト』("let's get lost")、アメリカ、1988年、監督ブルース・ウェーバー、89年度アカデミー賞長編ドキュメンタリー部門ノミネート

チェット・ベイカーの魅力を、僕はこのフィルムで知った。

スタン・ゲッツはずっと好きだったが、ウエストコースト・ジャズを
好んで聴くようになったのはここ数年のことだ。
そもそも、僕のジャズの入口とは後藤雅洋的「ハード・バップ」至上主義であり、
トランペッターとしてはクリフォード・ブラウンに憧れていた人間にとっては、
チェット・ベイカーのよさはなかなかわからなかった。
 

歌に声量はないし、トランペットの音色(「オンショク」と読んでほしい)も
決して太くなく、「倍音を多く含んだ、朗々と響き渡る」ような、
いわゆる「いい音」ではない。
アドリブ・ソロのフレーズも単純で、簡単に譜面におこせるものばかり。
チェット・ベイカーは、いわゆる「味がある」ミュージシャンであり、
聴き込むことによって何かを学ぶことができるミュージシャンではない――
実際にトランペットを吹いていた僕は生意気にもそう考えていた。


では、僕がこのフィルムを観ることで知ったチェットの魅力とは何か?


まずはじめは、その人間性
この時59歳だが、「枯れた人間性」がこの男の魅力なのではない。
そうではなく、いかがわしい人間が持つ魅力、
「典型的破滅型人間」の魅力である。


例えば、母へのインタビュー。


「チェットはもちろん立派なジャズミュージシャンよ。
 だけど……ええ、確かに、いい息子ではなかったわね。
 ……でも、好きにさせてあげて。」


そして、ツアー中に息子の交通事故を知っても電話ひとつよこさないなど、
その人間性の最低さは包み隠さずにカメラに収められている。


恐らく、この人間と付き合うことは、
自分にとって毒にしかならならないだろう……それはわかっているのだが、
つい一緒にいたくなってしまう。
そんな魅力が、この男にはある。


一言でいうならば、それは「自分に執着していないところ」だろうか。


来るものは拒まず、去るものは追わず。
この男ならば、細かいことを言わずに自分を受け入れてくれるのではないか……
フィルムを観ている内にそんな気になってしまう。


だが、誰にでも優しい人間は、自分に一番優しい。
チェットがドラッグで破滅していくのは当然の成り行きだった。


チェットのような人間は、成長とは縁がない人間だろう。
しかし、その人間が若くして既に天才だった場合には、成長しないことは、
つねに若い頃と同じ才能を発揮できるということでもある。


このフィルムには、晩年のレコーディング風景とライブが収録されているが、
驚くくらい歌もトランペットも衰えていない。
監督ブルース・ウェーバーの心憎い演出――
老いたチェットが「almost blue」を歌い終わって客に手を振るシーンに、
若い頃のチェットをフラッシュバックで重ね合わせる演出――
は、そのことを表しているのだろう。


このフィルムが感傷に流れないのは、物語仕立てでなく、
淡々としたインタビューを中心としたドキュメンタリー形式だからだ。
このフィルムが白黒であることもその重要な要素の一つであるが、
これについても記しておこう。


白黒の映像は、さらに2種類に分けられる。
即ち、白と黒、明と暗のコントラストが顕著である映像と、
白と黒というよりも全体的にぼんやりと灰がかった映像である。

前者はフィルムノワールの諸作品など、サスペンス・ホラーの演出に利用され、
後者はいささかユートピア的色彩を帯びた、
ノスタルジックな効果を狙って使われる。

前者の例としては、キューブリックの『現金に体を張れ』や、
ヒッチコックの『サイコ』で血の濃さをアピールするために、
血の色として赤でなく黒が使われたことが挙げられるし、

後者の例としては、いうまでもなくジャームッシュ
ストレンジャー・ザン・パラダイス』だ
(もっとも、ジャームッシュが白黒の映像を使ったのは、
 資金不足のためにヴェンダースからもらった白黒のフィルムしか
 撮影に使えなかったから、という現実的な理由もあったらしいが)。

このフィルムは、後者の映像を使うことで、
チェット・ベイカー」という人間と、この人間が醸し出す雰囲気を
描き出すことに成功している。


最後に、ギャングやチンピラと揉めて歯を折り、
トランペットが吹けなくなるというエピソードは、
『モ・ベター・ブルース』の元ネタなのではないか?


晩年のチェットはコステロの曲を好んで歌っていたらしい。
このアルバム、聴きたいなぁ……。

レッツ・ゲット・ロスト [VHS]

レッツ・ゲット・ロスト [VHS]