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Chikirinの日記 RSSフィード

2008-06-30 地球からの警鐘

この前テレビで、東大の経済学の先生が言っていたことが、“なるほど&さすが”だったので書いておくです。

司会者がゲストであったその人に、今回の原油高について聞いたときのこと。その学者さんが言ったのは、

「70年代の石油ショックは、先進国がエネルギーを贅沢三昧に消費する生活に入ろうとしていたことに対する地球からの警鐘であった。

そして今回の原油高は、中国やインドまでが先進国的なエネルギー大量消費国になろうとしていることにたいして地球が再び警鐘を鳴らしているのだ。」と。


うーん、なるほど、でした。


原油高の原因が「地球からの警鐘」というのは、ある種、観念的というか、「そんなことあるわけないじゃん」というか、「なんのこっちゃ」なのであるが、それでもそれは「真実」だと思える。

「地球」などというものが、意思をもつわけがなく、宇宙アニメの世界じゃあるまいし、と思うけど、やっぱり、「そうだよね」と思える。

だからといって「証明できないモノ」を「神だ!」と言う気もちきりんには全然ありませんが。

★★★

まあとにかく、「実需だ」「いやちがう、投機問題だ」という現実論的な分析に対して、根本的なことはなにか、というのを、これくらいきれいに突けると爽快ですよね。

久しぶりに「すごいじゃん」と思える意見だったのでメモ代わりに書いときます。

そんじゃあね。

2008-06-28 “大人度ゲージ”

たとえばそれぞれの人の“大人度”を考える。

生まれた時は皆「大人度0%」でしょ。それが人生の中でいろんな経験を経て“大人度”は次第に上昇する。インジケーターってか“ゲージ”が0%から100%に向かって上昇していく、というのをイメージしてみてください。

ホントの大人になるとゲージは100%になる。でも、もちろん“大人度100”に至らずに人生を終える人も大勢いるし、大人度=マチュリティ・レベルは実年齢と相関するわけでもない。

もしこういう“大人度ゲージ”みたいなのがあったとすると、私の大人度はいくつなのか?

それはいったいどのように0%からここまであがってきたのか?これから何があると100%に向かってあがっていくのか、ってのを考えてみた。

★★★

ちきりんの場合で考えてみましょう。

生まれた時はゼロだよね。

子供の頃でインパクトがあったのは、自分の下に二人の兄弟が生まれた時でしょう。母親の手は二つしかない。右手と左手。すなわち、子供が3人になった時点で、母親に手をつないでもらえる特権を失う。

5才にして最初の喪失感。ちきりんは長女だし初孫。すべての大人にとって自分が一番大事な子供だったのに、「げげ〜、あたしって女王様じゃなかったんだあああああ」って知らされる。あ〜、思い出してもつらかったぜ。

大人度2%


これを「挫折期」と呼ぶことにする。

まず人は、「自分は王様ではないと気がつく」ことで大人への階段の最初の一段を上る。

★★★

学校である程度社会性は養われるが、まあ、別に学校に行っただけで大人度があがるわけではない。ロボットみたいに朝学校いって、座ってて、夕方戻ってくれば卒業できますからね、高校までは。

ちきりんには経験がないが、もし、小中学校では神童だったが、高校にいったら普通の人だった、みたいなことが起れば、それって結構大人度アップに貢献すると思う。「自分の限界を知る」とか「自分のいた場所が大海ではなく、井戸の中であったことを知る」というのは、大人度を大きくあげるイベントだと思う。そこで挫折って人もいそうだ。この前、アキバで暴れた人もそんなこと言ってたような。

ちきりんの場合は、中学校で「社会の縮図を見た」みたいな体験をして*1、これでかなり大人になった。子供の人生に全く関心のない親が存在するのだ、とか、そーゆーのホント衝撃だった。「あたしってもしかして幸せ者なのかも〜」と思ったよ。社会におけるいわれのない差別の多くを目にして、「世の中ってあまりに汚い」と痛感もした。子供の世界ではなく、大人の世界をのぞいた、と思う。


大人度7%


ええっと、ここんとこを「社会(との)遭遇期」とするか。

親からや学校で教えられていたことが「嘘じゃん」と気がつくとか、「ひえ〜、世の中でかいっ」って気がつくのが、2番目の階段を上る時ってわけ。

★★★

高校ではあんまし進展なかった。入学時と卒業時の大人度はほぼ変化なしかなあ。

★★★

しかし、大学の最初の1年で大人度は大幅にアップした。大学って高校までとは全然違うよね。そもそも「行かなくても誰も怒らない」じゃん。これはすごいよ。つまりさ、「大学行く意味」を自分で見つけない限り、行けなくなっちゃう。実際そーゆー人、いるべさ。(←どこの生まれだべ?)

この「“○○する意味”を“自分で”見つけられるか?」ってのは、大人度を左右する非常に大きな命題なわけですよ。その第一歩がここで来るよね。

今までは助手席にのっていたのにいきなり運転席に座れと言われる。そして「どこに行ってもいい。どこにも行かなくてもいい」みたいな立場に置かれると、「あたしは何がしたいの?どこに行きたいの?」ってのを自分で自分に問わなくちゃいけなくなる。「えっ、別にどこにも行きたくないんすけど、俺」とか言い出すと「んじゃ、エンジン止めるか」みたいな人もでてくる。

一方で、暴走する人もでてくる。そんな運転、滅茶苦茶だよ!!みたいなことする人もいる。初めてハンドルを自分で握って、やっていいこと悪いこと、それやると何が起るか、とか、考えられずに、考えずに走っちゃう人だ。たまにここで事故死する、みたいな人も現れる。

ちきりんの場合、高校から大学への変化に加えて、18才からは実家をでて下宿を始めている。すると24時間の自由度が手に入る。大学にいくかどうかという自由度だけでなく、飯を食うかどうか、風呂にはいるかどうか、みたいな自由度さえ手に入る。

なにをやるにせよ、「自分は何をしたいか」というのと、「なんでさ?」ってのが問われてしまう。

ここは大きかったと思います。


というわけで大人度20%

★★★

就職活動をして社会にでる、という活動と最初の数年の仕事、のあたりも“大人度”に与える影響がでかいよねえ。

まずは就職活動。受験とちがって「メジャーがない」。受験の時は「定規」があるんだよね。で、その定規に合わせて他人や親がアドバイスしてくれる。「あなたの成績なら、このあたりです。」って。

だからあんまり考えなくても「じゃあ、ここ行きます。」とか言える。考えずに人生の駒が一つ進む。

しかし就職活動では「世間一般に使われているメジャー」が存在しない。「だいたい自分だったらどこにいけばいいんでしょう?」とか聞いても誰も答えてくれない。反対に「おまえは何がやりたいのだ?」とか聞かれちゃう。これって聞いてる方からすると意味不明だ。「やりたいことがわからないから、どこに行けばいいかと聞いてるんですけど?」って感じよね。

というわけで、学生の時はとりあえずまじめな人なら「意味は不明だが、一応大学行こう。そういうもんらしいし。」とかいう安直な選択も可能だが、働く時はそうはいかない。よくわかんね〜な〜とか思っているうちに就職活動シーズンが終わり、そのままなんとなく卒業してしまう人も多そうだ。


加えて、それを乗り越えても最初の就職ってびっくりするほどの体験だ。やっぱ学生(金払ってる)と、社会人(金払ってもらう)は全然ちゃう。つらい。朝起きるだけでもつらい。よくわからん作業を延々やるのも意味不明。まじかよ??って思うことがたくさんある。しかも給料こんだけかい?みたいな感じだし。

で、「なんでこんなつらい思いをしてまで親から独立する必要があるのか?」という問いに答えが見つけられないと、このステージ(危機??)は乗り越えられない。


ここでも同じだ。このあたりまでの時期においては“大人度”を上げるというのは、こういう「自分の人生の“なんで?”質問」に答えを見つけていく作業なのだわね、きっと。

まあ、というわけで、就職2年目をコンプリートした時点で「お〜、自立するっておもろいわけじゃん〜」とわかったりすると、大人度30%。

★★★

さて、上記のステージまでで「○○する意味探索期」が終了し、ここからは「取捨選択期」が始まる。

次の15年くらい、すべての人が多くの選択肢で答えを選ぶよう迫られる。転職、結婚、子供を持つか、留学、どこに住むか、どういう働き方をするか、等々。

ここでは「複数の正しい選択肢」が与えられ、「どっちを選ぶねん?」と迫られる。今までは「複数の選択肢の中から、一番正しいものを選ぶ」というゲームだったのに、この15年では、すべての選択肢は正しい、のだ。正しい選択肢が複数あるなかから「選べ」と言われると、「どれが正しいのか?」という視点や訓練は全く意味をなさない。

しかも「全部取り」はできない選択肢ばっかりだ。昔なら「勉強もスポーツもどっちもがんばる!」とかあったけど、「結婚もするし、独身も楽しむ」というのは両立しない。「ばりばり働くけど、まったり暮らす」もできない。



これらの選択肢を繰り返すことで、多くの「選ばない選択肢」を積み重ねることになる。「捨てるもの」であり人生において「あきらめるもの」がたくさん積み重なる。

これが人を大人にする。「あきらめが人を大人にする」というのはこういうコンセプトだ。「全部は手に入らない」ということのつらさを乗り越えないと次のステージに残れない。


大人度40%。

★★★

さて、上記と平行して、「親になる」「親を超える」というふたつの「大人になる機会」が与えられる。ただし、子供も親も健康である限り、大人になるチャンスは得られない。

しかし、たとえば自分の子供の健康に問題が起ったとする。手術をするかしないか、どういう治療をするのか、子供の命に関わる判断を、親は求められる。

これは、人にとって初めて「自分以外の人の人生を左右する」という体験となる。ものすごいプレッシャーがかかる。自分が若い親である場合、自分の親(祖父母)に頼れるか?頼れないよね。意見は当然聞くだろう、しかし、自分の子供に関する判断は、自分の親(祖父母)には任せられない。人はここで初めて「他人の人生に責任を負う」という体験をする。


親についても同じだ。親が健康であれば、なんだかんだいっても「親を超える」という経験はなかなかできない。しかし、親が老いなり病気なり寿命なり、なんらか動物として弱者になっていくのを見、それに関わる判断を求められると、子供は初めて「立場の逆転」を理解する。

今まで、自分の親が、自分の人生に関わる判断をしてくれていたように、今度は親の人生に関わる判断を、自分がしていくという立場になるのだ。

そして、そのとき初めて知る。自分は、自分の親のことを全然知らないと。そして困ってしまう。どうやって「この人にとってのベストの判断」を自分がすればいいのか?と。この人の人生を知らない自分がどうやって?と。


大変です。大変だから大人になる。



こうして、親子とはいえ「他人の人生を左右する判断」をする立場を経験することによって、“大人度”は一気にジャンプする。「この人は何を望むだろう?」という他人の気持ちを、自分の気持ちとして理解するスキルが問われる。思い入れが問われる。責任が問われる。説明責任が問われる。自分の人生ではない。自分以外の誰かの人生に責任を負うのだ。



ちきりんは親に関しては体験したが、子供に対しての体験はなく、大人度60%。

★★★

ここが今の時点ですが、これから何があり得るのか?


最後のチャンスは「自分の死に方」を考える時だと思う。

「人生が終わる」ということをどう“飲み込んでいくのか”“納得していくのか”というのは、一定の大人度がないと難しい。

大人度のない人の死に方とは、まさにこの前のアキバの馬鹿モンの行動だ。自分だけでは人生を終わらせられない。他人を巻き込んで勢いで死のうとして、それでも失敗すると生に執着を始める。

おいおい、だ。


さて、「あなたの人生はあと4ヶ月です」と言われた時に、自分がどう人生に向き合うか。こういうことが用意できた時点で大人度20%アップだと思うのよね。

もちろん、ちきりんはまだ全然用意できてないです。生きている意味と、死ぬという意味。哲学的にではなく、プラクティカルに、それはどう生きるという意味なのか。


先日、桑田(元)選手が言っていた。「人間はいつ死ぬかわからないんです。それがいつかさえわからない。だから僕はすべてに全力投球をするんです。なんでも一生懸命やるんです。できないことでもできる限りの努力をしようと思うんです。」って。

ああいう職業についていると、人間としての死期はまだ遠くても、“選手生命”の終末期を、普通の人の寿命と同じ重さで意識するんだと思う。だから「死ぬ日に向けて、どう生きるべきか」という心構えができる。

なるほどねえ、と思いました。


五体不満足の乙武さんや、エイズ禍の川田さん、彼らは10代の頃から「死」と向かい合いながら生きてきたはずだ。そしてその裏返しとしての「生きる意味」を意識してきたと思います。ああいう人の“大人度”には、普通の人は絶対追いつけないと思う。16才くらいから大人度70%みたいになってる人生だと思う。

★★★

まとめると、“大人度ゲージ”を高めるには、以下のステージをクリアする必要がある。


(1)挫折期

(2)社会遭遇期

(3)(人生の)意味探索期

  (3)-a 前期(定規あり)

  (3)-b 後期(定規なし)

(4)取捨選択期(もしくは、あきらめ期)

(5)他人の人生への影響者時期

(6)ラストデイ準備期間


ってな感じ。

★★★

まっ、そーゆーわけ。


例のアキバのおにーさんとか、昨日の軍師の人とか、「大人度低すぎ」と思ったので、書いてみた。



そんじゃー。

★★★

ちきりんの中学校時代については下記を。

2008-06-26 やるなら“軍師”

数週間前にテレビのニュースで引きこもりの人の特集やってて、5分くらいだけ見たんだけど、映像は自然だったので“やらせ”ではないと思うのだが、


60才を超えたお母さんと30才を超えた息子の二人暮らしで、

息子は私立大学の理工学部を出てて

氷河期で就職に失敗して、その後、派遣とかアルバイトとかしてたけど続かず今はなんもやってなくて


お母さんが保険の外交かなにかで月20万円くらい稼いでてそれで食べてると、(お父さんはいないみたいだった)

そういうおうちでした。


お母さんは「も〜とにかくなんでもいいから社会に出て働いてほしい」と至極当然のことをおっしゃってまして、


んで、テレビクルーがその男性にインタビューするんだけど、その会話がおもしろかった。

★★★

最初に、テレビクルーが大学の卒業証書を見せて、っていうんだけど、その男性がすごい嬉しそうに卒業証書をカメラの前にどどんと差し出して見せていたのが印象的でした。ニコニコして「ほれほれ」って感じだった。大学名はぼかしてありましたが。


そーか、嬉しいんだ、それ!



と思った。



でも、本人が自慢げ&嬉しそうに卒業証書を掲げてる一方で、テレビ局が大学名の部分に“ぼかし”を入れる意図は「大学に迷惑をかけるといかんから」ってことなわけで。その辺のギャップがそこはかとなく哀れではある。


“俺の人生で唯一自慢できる卒業大学”と、

“できればなかったことにしたい卒業生”・・・


★★★

テレビクルーが、「お母さんは働いてほしいとおっしゃってますけど」って言ったら、本人は


「働け、働けってうるさく言うだけで何もしてくれない」


って。



結構驚愕でしょ。

60の母親に一人で働かせて、それで食べてて、「何もしてくれない」って。

「親の顔が見たい」感じだが、それって自分だよ、みたいな。

★★★

その後のインタビューが、本人はパソコンに向かってる、んで目線だけ時々テレビクルーの方をみるって感じで行われるのだが、

“(本人に言わせると)パソコンでいくらか稼げるらしい”というナレーション。


「いくら稼げるんですか?」

「うーん、月に400円くらい。」「あっ、でも多いときは千円くらいにもなる。」


・・・・・


「コンビニでバイトした方がよくないですか?」とテレビクルー。

「いや。あんな仕事しても将来性がないでしょう?」と本人。


正しい!


局所的にテレビクルーより本人が正しい。

★★★

「じゃあ、どんな仕事をやりたいのですか?」とテレビクルー。



「やるなら、軍師とか。」



「軍師??」

「軍師ってほら、他人にいろいろ指示したりアドバイスする仕事。そーゆーんじゃないと将来性がないと思うんですよ。」



おもしろかったのは、ごく自然に“軍師”という言葉がでてきてから、テレビクルーが一瞬わからない顔をして、んで、本人がはっとした顔をして、「ああそうか、説明しないとわからない言葉なんだな」と感じ取って自分から説明した、というところ。


なんだよ、こいつ、結構社会性あるじゃん


と思った。

★★★


ちきりんも、軍師やりたいぞ。




どうでもいいけど、

氷河期じゃなくても、こんな奴雇う会社あるんかね。

とも思った。




「で、うちに入ったらやりたい仕事は?」

「軍師、ですかね」




言ってみたいぞ、そんなこと。

一回くらい。


2008-06-25 まともな会社のまともな努力

この前シンガポールのチャンギ空港で乗り換える時に、シンガポールエアラインのカウンターで手続きをしたのよね。んで、用事が終わって近くのベンチに戻って荷物を整理していたら、すぐに別の係員がやってきて、「アンケートさせてください」っていうわけ。

で、なんですか?ってきくと、「さっきのカウンターでのサービスについて、満足度をききたい」と。で、用事は解決したか?待ち時間は長すぎなかったか?対応は迅速だったか?言葉遣いは適切だったか?笑顔はあったか?などなどを5段階評価しろ、というわけです。

で、まあ答えたんだけど、そしたら「さんきゅー」っていって戻っていきました。


これ、わかります?

シンガポールエアラインが雇っている「覆面調査員」ですよね。このアンケート調査員は、客がエアラインのカウンターで用事が終わるのを待っていて、その直後にその客に「対応はどうだったか?」ときくわけです。当然、「誰が対応したか」、つまり、シンガポール航空のカウンターにいた係員の“固有名詞”も調査票に書き込んでいるでしょう。

そして、“「○○××」という係員に対応をされた顧客100人にきいた満足度調査”というのができあがるわけです。

あまりに評判の悪い職員は首になるのかもしれないし、そうでなくても、評価に使われたり、トレーニングの設計に使われたりするのでしょう。


「ああ、偉いなあ」と思いました。

世界で一番サービスがすばらしい、と言われる航空会社は、こうやってできていくんだなあ、と思いました。


なお、ちきりんはシンガポール航空の100倍くらいの頻度で成田空港も日本の元国営飛行機会社も使いますが、今までただの一回も覆面調査を受けたことはありません。

★★★

この前、家に電話がありました。衛星劇場というちきりんがスカパー!経由で視聴している有料チャンネルからです。

「番組に対するご意見などをいただきたい」と。


スカパー!には、山ほどのチャンネルがあるのですが、そのうち8割以上が「パック料金」で視聴できます。パック料金というのは「月○千円」払うと、「この30チャンネル全部が見られます。」みたいになってるやつですね。有料チャンネルがパック売りされてるわけです。

なんだけど、中にはこの「パック売り」に入ってない番組がある。数は多くありません。よほどコンテンツに自信がない限り、単独販売はできないです。だって、3500円払うと50チャンネル見られるのに、単独販売されるのは1チャンネルで1500円とかなわけですからね。一方で番組側の収入という意味では、パック売りではたいした収入にはならないでしょう。単独販売ならそれこそ桁が違う収入が手に入る。

しかし、単独で視聴契約を獲得するのは並大抵のことではないです。ひとつの家がテレビの視聴料金として何万円も払ったりはしないわけだから、相当高い評価をえないと単独では契約してもらえない。なので単独販売されるのは外国語の番組か(ブラジル人向けのポルトガル語チャンネルとか)、専門番組(経済や医療や)などが多く、普通のドラマやバラエティの番組で「単独販売」というのは非常に限定的です。

衛星劇場は、そのひとつ。つまり、数少ない、単独で売られている一般チャンネルなんです。



で、ちきりんは数ヶ月この視聴をとめていました。たまたまなんだけどね。そしたら電話がかかってきた。そして「なんで視聴をやめたのか?」「その理由は価格なのか、コンテンツなのか」「コンテンツだとしたら何がほしいのか」等々。

視聴を再開してくれとか、いわゆる営業は一切なし。


つまりね、電話してきたのは、「よりよいチャンネルを作るために、何をすればいいか調査をする人」であって、営業マンだったり、営業目的で雇われたテレホンアポインターじゃないってことです。


単独で自分を売れる番組ってのは、そういう努力をしています、ということ。


よくわかるよな〜と思って。

ひとつ。売れているもの、高い評価を得てる人や企業というのは、ちゃんとまともな努力をしているということ。

ふたつ。そのまともな努力とは、「顧客から直接フィードバックを得る」ということなの。しかもそのために、きちんと経費をかけている。

“自分を雇ってくれる人”に営業したりフィードバックを求めるのと、「顧客」(雇い主ではない)からフィードバックを得るのは全然違うことでしょう?そのために経費をかけているわけです。コストをかけてでも顧客の声を直接、その場で聞き取る。(経費を節約しようと、自分で"どーでしたか?”とか聞いても正直な声は得られません。お金をかけて別の人に意見を集めてもらうからこそ顧客の忌憚ない意見が聞ける、得られるわけ。)



買ってもらうために、高い価値を認めてもらうために、必要なのは「営業」ではない。「顧客の声」だということ。本気でそう思うならちゃんとそのために金を使え、ということ。


あまりに当たり前すぎて、書くのもあほらしいようなことだよね。

なんだけど、それをやっているところは、やっぱりそれなりの会社ばっかりなわけよ。“誰でも知ってる当たり前のこと”でも、結局は皆がやっているわけではない、ということ。「実際にやっている人は、当たり前の会社じゃない。当たり前の、どこにでもいる人じゃない。」ということ。


うちの回線が何の種類になってるかも確認せず、とりあえず爆弾攻撃みたいに何度も光回線の営業電話かけてくるどっかの元電電公社とか、加入している損害保険の契約の件ですとかいいながら、途中で同じグループの生命保険の営業トークを始めるような詐欺みたいな電話してくる業界一位の損保会社とは、


心構えが全く違う


と思いました。

そんじゃあね。

2008-06-24 父の一言

ちきりんが“社会派”になったきっかけ、正確には「社会派だとわかったきっかけ」が一枚の葉書だった、という話はずいぶん前に書きました。

→「ちきりんが社会派になったきっかけ


同じような体験で、もうひとつ別のことも思い出しました。小さい頃、と言っても小学校の高学年の頃。

ちきりんはあんまし記憶力がよくないのです。小さい頃の話はよく覚えてない。なのに、その体験はその時の父の口調が頭の中でそのまま響くくらいクリアに思い出せます。人生のきっかけになった体験だからでしょう。


1月。成人式についての記事が新聞に載っていて、私は当時、毎日2,3時間かけて新聞を隅から隅まで読むような子供でした。その日も新聞の成人式の記事を熱心に読んでいたら、横から父親がのぞき込んで、こう言ったのです。


「成人式なんか意味ないで。そんなもん、選挙運動やからな」



その時の父親の口調をそのまま再現できるくらいよく覚えてます。びっくりして声がでなかったです。

そ〜なんだ〜!!!

って感じでした。


当時のちきりんは小学生ですからね。成人式ってのは、市役所が、「みなさん、大人になりましたね、おめでとう」って祝ってくれて「これからは大人なんだから、責任をもった行動をしてくださいね」みたいなセレモニーだと思ってたわけです。

それが「選挙運動??」って感じでしょ。


でも、いわれてみれば非常に納得できます。だって、二十歳になる人って「今年か来年に、初めて選挙権を得る人」です。全く選挙に関心ない若者もいるけど、それでも初めての選挙くらいは行くかもしれない。

彼らをまとめて成人式に呼ぶ・・・。

そこで、挨拶するのは「現役の市長」なんです。


そりゃー有利だよねー。政治家のことなんか全く知らない「初めての選挙権をもった人」を市の予算を使って一同に集め、自分の名前を大書した式次第を掲げて、「みなさん、おめでとうございます!」などと壇上から微笑み、挨拶する。下手するとお土産まで渡す。税金で。

半年後だか2年後だか、彼らが初めての選挙に行ったとき、投票所の前に掲げられたポスターの中に「どっかで見たことある顔」があり、投票用紙をもらって前を見ると、「ああ、この人、俺知ってる」人が出てる・・。


現役の市長さん等にとっては(どんなに市の財政が逼迫していても)「おいしすぎて、やめられないイベント」でしょう。



で、ちきりんは愕然としたわけ。


「意味なくない??こんな毎日毎日、時間かけて新聞読んでても・・」と思ったのです。

新聞には「成人式と選挙の隠れた関係」なんてどこにも書いてない。本も(当時は)よく読んでたけど、そんなこと書いてない。ものすごい「だまされた」感がありました。「こんなん読んでても、時間の無駄なの??」と。


私はそれまで、社会のことや物事の本質をズバッと教えてくれるのが新聞なんだと思ってたんです。

まじめに一生懸命、教科書を勉強している同級生を横目に「教科書なんていくら勉強してもしゃーないんだよ。世の中がどー動いてるか、そんなもんには載ってないんだから。新聞読まなくちゃ!」とか言ってたマセガキ小学生のちきりん。

なのに・・・そんなもんには世の中の仕組みなんて全く載ってなかった。



衝撃!



あほらしくなった。

こりゃあかん、と思った。


だから、どーしたわけでもない。翌日からもちきりんは毎日、長い時間をかけて新聞を読みました。でも、もう書いてあることを無防備に信じるちきりんではなくなってたのです。「こう書いてあるけど、ほんとのところはどーなわけ?」という視点で読むようになりました。

つまり、これを機に私は「批判的視点」というのを手に入れたというわけです。そしてそういう視点で読み始めたら、新聞が報じることには多くのタブーがあるとか、裏があることが次々と見え始めたのです。


あの父親の一言は、今考えても、とっても大きな意味があったと思います。


もちろん、父親にそんな“教育的”意図はありませんでした。父は自分が「あほらし」と感じていることを口に出しただけです。

公務員でもあった父は、次の市長選に出ようとしてる議員や、選挙の近い地元国会議員が「オレにも挨拶させろ!」と成人式で挨拶する機会を取り合っている様でも見ていたんでしょう。

そして、日々新聞を熟読し“わかった気になっている”こましゃくれた娘に「んなもん読んでても世の中わからんで」と教えてくれた。


大人の「何気ない一言」が子供をいろんな方向に誘導します。子供はそういう体験を積み重ねながら育っていく。親から子とか、大人から子供、子供から子供、いろんなきっかけで人間の性格って形成されます。

そして私にとっては、あの一言がとても大きかった。メディアを鵜呑みにせず、現実を良く見て本質を見極めたい。そう思わせてくれた父の一言を、私は一生忘れないでしょう。


f:id:Chikirin:20150810175729j:image:medium

そんじゃあね。


http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+personal/  http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+shop/

2008-06-22 インフレバージンな私たち

最近モノが高くなってると、多くの人が感じてると思う。おもしろいのは、日本ではその現象を大半の人が「物価高」と呼ぶこと。別の言葉で言えば、これを「インフレの兆し」と認識する人が他国に比べて圧倒的に少ないってのが特徴だと思う。世界のニュースでは既に「広範囲のインフレが起こるのではないか」という言い方なのにね。

この差はひとえに「日本人にとってインフレというものが、非常に“遠い”存在だから」なんだろうと思います。そもそも過去15年もの間この国はずうっとデフレ傾向にあったわけで、今35才以下の人なんてモノの値段が毎年あがっていくという世界が想像さえできないのでは?

じゃあそれより年上の人はインフレを知っているのか?というと実はそーでもない。消費者物価指数をみると、今生きている人が経験できている範囲だと、昭和48年(1973)から52(1977)年あたりに物価はかなり上昇している。

S45(1970) = 7.7%

S46(1971) = 6.1%

S47(1972) = 4.5%

S48(1973) =11.7%

S49(1974) =24.5%

S50(1975) =11.8%

S51(1976) = 9.3%

S52(1977) = 8.1%

S53(1978) = 3.8%

S54(1979) = 3.6%

S55(1980) = 8.0%  

これによると昭和48年初に1000円だったランチは、内容が変わらないまま5年後には1837円になってたということ。結構な上がり方ですよね。ちなみに当時35才だった人は今66から70才。もうそろそろ日本では「インフレの痛みを実感した」という世代は(経済活動範囲からは)いなくなりつつある。今“物価上昇”を報道する記者もキャスターもそういう時代を全く知らないし、経営者層からもそろそろ引退。


ところで上の数字って、前後の期間でも3%以上の物価上昇率。今二十歳くらいの人だと「これ日本の話ですか??」ってくらい違和感ある数字なのではないかと思うです。

だってここ15年くらいの日本はインフレどころかデフレ(マイナス)年が半分くらいあるし、プラスの年でもせいぜい1.5%とか、ほとんど物の値段は上がらない、という時代が続いている。なので、今の日本では「インフレという言葉自体になじみのない人が大半」という状況なのは不思議でもなんでもないことだと思います。

★★★

なんだけど、この「物価高」というのと「インフレ」ってのはその意味するところが大きく違う。

ひとことでいえば「物価高」ってPL問題なんだよね。“損益計算書問題”もしくは“家計簿”問題と言ってもいい。しかし、インフレというのは“BS問題”なわけです。貸借対照表、もしくは“借金と貯金の問題”なわけ。

たとえば現状を「モノの値段が高くなる!」と認識するなら、「無駄遣いをやめよう」とか「少しランクの低いものを買おう」とか「日常の節約」が対応策になる。つまり「家計簿問題」なわけですね。

でも、「インフレがくる」と認識すれば、「数年後と考えていたけど今年マンション買おう!」とか、「生命保険、解約しよう!」とか、はたまた「定期預金解約して株と金にしよう」とかそういうことを考える必要がある。貸借対照表的対策が必要になるわけ。

これは個人も企業も同じです。経営者だって「利益を出すことを考えるのか」「資産と資金調達のミックスを見直すべきか」という「考えるべき範囲」の違いがでてくる。

なので、私たちが対処すべきなのは、迎え撃つべきなのは「物価高」なのか「インフレ」なのか?ってのは、結構大事なことなわけ。「どっちでも同じでしょ。節約が大事なんでしょ。」ってことではないわけです。

★★★

で、これから日本もインフレになるのか?ってのには、ちきりんもまだわからない。ベトナムとかいくつかの国では既にインフレです。が、日本がそうなるか?と言われると、まだなんとも言えない。

しかもこの国の財政・金融当局は、世界もびっくりするくらいの「インフレ嫌い」で有名だ。「大不況は来てもいいからインフレだけにはするな」なんて考えている中央銀行は日本にしか存在しない。おかげさまで日本は長期間にわたり不況で長期間にわたり氷河期だが、インフレとは縁遠い生活を享受しているわけだ。

というわけで、先進国でもアメリカあたりはやばそうだな、とは思うけど、日本は「最後」になりそう。またその率も、あまり高くないかもとは思います。まあ、どーなるかってのは誰にもわかりませんし、ちきりんも予想屋ではないので、この辺でやめときます。

ただ、前回のインフレの時期を見てください。オイルショックの時なんです。そう、(超インフレ嫌いの当局が支配する)日本までインフレに巻き込まれるのは基本的に「石油が尋常でない値上がりをした時」なんです。


で、ええっと、今の日本の“物価高”は何が原因だっけ?


というわけで「昭和48年〜52年みたいなインフレがきたらどーなるの?」ということを書いてみるです。

★★★

国と企業へのインパクトももちろんあるのですが(特に国家財政には大きな影響がある)ここではそれはパス。ちょっと複雑なのでね。個人の話をします。



非常に困るのは、こういう人です。

(1)過去10年以内に大企業や公務員を退職してその退職金で食べているとか、向こう10年以内に定年予定で、つとめているのは大企業か役所で、退職金がかなりでる予定で、その退職金で引退後20年暮らしていこうと思っていた人。

(2)マンションを買おう!と思って、もしくはお店を出したい!とかいって、こつこつ貯金をしてきている人。

(3)遺産や、田畑を売ったお金が銀行口座にごっさりと存在し、それで食べているプチ資産家。


結構困るのはこういう人です。

(4)年金で食べている人。

(5)社会福祉で食べている人。


まあ、困る部類に入るのは、

(6)給与が硬直的な会社で働いている人=公務員やメーカー系大企業などもここに入るでしょう。(貯金も資産もたいしてもってない、という人)


あまり困らないのは、

(7)給与が物価に連動する企業で働いていて、若くて資産はない、という人。

(8)その日暮らしで働いている人。

(9)自給自足の人(持ち家で、畑の野菜食べてるとかね)


割とラッキーなのは、

(10)頭金ゼロでちょい無理目なマンションかったばかりで35年ローンを抱えてる人

(11)自営業で最近かなり借金がたてこんでる人

(12)ちょこまかした借金のある人。もちろん貯金はない。


得する可能性があるのは、

(12)これに乗じてもうける人。売り惜しみとか、アパートの所有者で家賃をガンガン値上げするとかね、基本的にはモラルのないことやる人です。

★★★

まとめると、

勝ち組やまじめな人が損をし、

負け組にはあまり関係なくて、

悪い人が得をするかも、

となるわけです。


また年齢で言えば、圧倒的に年配者に不利で、若年者に有利です。


これで日本政府がインフレを忌み嫌う理由がわかりますよね。「インフレは、日本で“徳”とされている価値観をぶっ壊す可能性がある」からです。「こつこつまじめに働いて、貯金をする」ということのばからしさを存分に教えてくれる。だからインフレには意地でもしたくない。


なんだけど、上に書いたようにこの価値観の逆転こそがインフレによって引き起こされます。ちなみに「悪い人」なんていうのはたいしていません。インフレで儲けられるレベルの悪人なんて相当の人だけなんです。大半の人は最初の2者のいずれかに属する。そして、簡単にいえば、「勝ち組と負け組は逆転する」というのがインフレの意味。

お金のない人、借金のある人、給与が毎月(毎日ならなおよい)かわる人の方が、退職金たっぷりの会社に何十年も勤めてきたり、年に一回だけ春闘で給与が変わるようなところにいるより得(損が少ない)ですよ、って世界がくるわけ。

★★★

誰かが言ってたじゃん。「希望は戦争」って。戦争にでもならないと社会階層の逆転が起らないって。でも、一定以上のインフレがくれば起りますよ。その方が穏当だし、少なくとも今の状況から言えば「ありそう」な感じです。


まあ、本当にインフレがくるかどうかは微妙だと、ちきりんもまだ思ってる。わかりません。ただ最近、この件に関して世界の感覚と日本の感覚がかなり違うなあと感じることが多くてね。日本人って「バター買いだめ」とか「節約」とか、家計簿対策ばっかりだよね。全くBSに目を向けない。

今頃インドの人は金を買いまくっているし、インフレを理解している国の人達は、貯金を切り崩したり新たに借金して工場建てたりしてるわけ。

個人も企業も、日本は対策が圧倒的にPL側に偏ってる、と思う。


それは結局、私たちがインフレ・バージンだから。なんだと思う。



いざという時、どー振る舞うべきか、ちょっとだけ考えとく?


そんじゃあね

2008-06-21 不安で不満で苦しくて

ちきりん家には音楽再生機がないです。音楽はスカパー!で聴くんで。何種類かの音楽専門チャンネルだけでも十分な上にジャンル別に分かれたラジオチャンネルは何十もあり、いつでも好きなジャンルのが聴けます。というわけで、ちきりんにはこれで十分。

気に入った番組はDVDにためて繰り返し聞いたりもします。最近よく聴いているのが“甲斐バンド”。75年くらいで当時ボーカルの甲斐よしひろ氏が20才くらい。

リズムの方はレゲエ、ボサノバ、様々なエスニックな色合いも混じってて今聴いてもとてもポップに楽しめるのですが、詩の方がもう「まさに、あの時代」って感じで、時々打ちのめされます。

たとえば、漂泊者(アウトロー)という歌の一節。

誰か俺に愛をくれよ。

誰か俺に愛をくれ。

ひとりぼっちじゃ、

ひとりぼっちじゃ、

やりきれないさ。

すごいですよね。こんなストレートに淋しさとか苦しさを表現しちゃうわけね、って感じ。この前の犯人の書き込みにも似てません??

と思いつつ聴いてると、改めて認識するわけです。“二十歳くらいってのはこういう感情の季節”なのだと。不安で不満で苦しくて、ね。

★★★

なんで俺様を世間は認めないのだ?俺様はこんなにすげえのに!という気持ちと俺なんて全然価値のない存在なのだ。生きていてもなんの意味もない、という気持ち。

俺は絶対将来すごい人間になる!という確信と、そんなことはあり得ないという確信。

誰かにとってかけがえのない存在になりたいし、自分にとってかけがえのない存在の人に出会いたい、だってそのために生きているのだろ?という気持ちと、んなもんあるわけないじゃないか。そんなこと言ってるから俺はここから抜け出せないのだ、という気持ち。

周りはみんなアホだ!という気持ちと、一番アホなのは俺だ!という気持ち。



みたいなね、矛盾してるじゃん、みたいな感情を一人で悶々かつ延々と頭と心の中で戦わせてる時期だよね。15才〜25才くらい。

★★★

ちきりんが小学校5年生の時に読んで、18才まで「人生のバイブル!」としていた本は高野悦子さんの二十歳の原点って本ですが、彼女が“二十歳の原点”とした言葉は、「独りであること、未熟であること」。

その直後に自死してしまう彼女の、大人になるためのゼロ地点は“孤独”という標識のある地点だった、と。

ほんとの意味で大人になってしまうと、「人間なんてどうせ独り」ということと「誰一人として決して独りではない」という“ふたつの真実”を両方とも受け入れることができるようになる。

“未熟な時期”にはそんなの受け入れられないよね。欺瞞じゃん。矛盾じゃん。だまされてるじゃん。ずるいじゃん!という気がしちゃうでしょ。

★★★

坂口安吾の文庫本“暗い青春、魔の退屈”というに収められている“二十一”という自伝風小作品。

安吾は二十歳の頃、「悟りを開く」と決めて一日の睡眠を4時間に限定したりして仏門に入ろうとするのだが、その頃、家に出入りしている大工の棟梁の若い娘がいたいけであまりにかわいいので「母親に頼んで結婚させてもらおうか」「いや、それは仏門入る俺にはありえない道だろ?」みたいなことでぐだぐだと煩悶し、“睡眠不足のために”神経衰弱になっている。


若いって笑える。

ってか、とっても素敵な時期だと言うべきか。


いや、過ぎてみればね。

★★★

二十歳前後の頃に、なんの不安もなく現在と将来を信頼できて、なんの不満もなく自身と社会に満足しきっていられるとしたなら、実はそれはそんなに幸せなことではないかもよ、という、これまたそれ自体大いに矛盾に満ちたことが言えちゃう気もする。



不安で不満で苦しくて。



そういう時期をきちんと体験しておくと、結構ラッキーと思えるかも、です。後々ね。

そんじゃ。

2008-06-18 死刑制度もうひとつの“不思議”

連続幼女殺人事件犯人の宮崎被告の死刑が執行されたらしく、死刑制度についての議論が盛り上がっています。

問題になっているのは、

(1)死刑制度の是非論

(2)死刑執行を決断する法務大臣の恣意性の問題

(3)死刑判決の判例の問題

(4)死刑囚の扱いや死刑方法に関する議論

など。


(1)については 前に書いたことがあるので、今回はパス。


(2)については、ここ 2代の法務大臣が粛々と刑の執行をしているため、議論が高まっています。


(3)はよくいわれる「殺したのが一人なら死刑にはならない」といった「死刑になる条件」みたいな話です。

たとえば“その世界”の人達の間では「おまえは“マエ”もないし、一人殺っただけならすぐでてこれるから」みたいな感じで役割が割り振られたりします。(マエとは前科です)

山口県光市母子強姦殺害事件も本来は(あのアホな死刑廃止論者の議論はほっとくとして)このあたりが論点でした。


(4)もいろいろ議論があります。


★★★


今日は (2)の、死刑判決と死刑執行について、考えてみます。

コレ、死刑の判決は裁判所で出されますが、執行されるかどうかは「法務大臣の心ひとつ」ってのが、スゴイですよね。

裁判所が決めた判決を、法務大臣が無視して問題にならないなんて、すごく不思議です。


法律上は=刑事訴訟法には「死刑は確定後六ヶ月以内に法務大臣が執行を命令すべし」とありますが、実際には何年も執行されないことはよくあります。

何十年も死刑囚のまま(しかも再審請求もされてないのに)刑が執行されず放置されるケースがある一方で、池田小学校に切り込んだ宅間被告は一年で死刑執行されるなど、

どの死刑囚が先に死刑を執行されるか、というのは、事実上、法務大臣(法務省の官僚?)が決めてるわけです。


★★★


このため、「死刑確定囚」の数はけっこう多くて、現時点で 102名らしい。うち 70名程度は 2000年以降に死刑判決が出た人です。

反対にいうと、30名程度は、非常に長期間、死刑が執行されていない人達がいるってことですね。

中には拘置期間 40年みたいな人もいます。そして最近は死刑囚のまま病死する人もいる。

たとえば、80才以上の死刑囚の病死なんて、事実上「死刑囚として天寿を全うする」という意味不明な状態になっています。

日本における死刑囚の一覧 - Wikipedia

日本における収監中の死刑囚の一覧 - Wikipedia


何十年も死刑が執行されない死刑囚には、いくつかのパターンがあります。

(1) 冤罪の可能性がある人

(2) 病気の死刑囚

(3) 宗教のグル

(4) 外人

(5) 新左翼系のテロ犯人

(6) 後の他の人の裁判で、証言させたい人

これらに当てはまると、死刑は執行されにくくなります。


★★★


(1)の冤罪の可能性のある死刑囚は、大半はかなり昔の事件で、実際「これは冤罪でしょ?」みたいな事件が多いです。

戦後のどさくさや、今と違って科学的な捜査もできなかった時代、しかも、社会差別が根強かった時代の事件では、

「あいつはあの地区の生まれだから犯人に違いない」みたいな逮捕をされた人もいます。

こういうケースについては、法務大臣も執行にゴーサインは出せないでしょう。(てか、だからといって死刑囚として拘束を続けてるのはどーなの?って話ですが)

あと、冤罪以外でも、「もし精神鑑定が行われていれば死刑にはならなかっただろう」と思われてる人も執行されません。

つまり、「死刑が妥当でない可能性がある人」の執行はされないんです。


(2)の「病気の死刑囚」は確かに扱いが難しい。

おそらく死刑囚でも病気になれば入院させたり治療を受けさせるのだと思いますが、そうなると、「治療すべき人」なのか「死ぬべき人」なのか、真逆の方向ですからね・・・


(3)は世界でもそういう例が多いらしい。

宗教家は死刑にすると「その宗教が、より盛り上がる」という傾向があるから。

これは・・・イエスキリストの処刑からの学びってことですかね? 権力に惨殺されることで神格化されてしまう。

それを避けるために生かしておくケースがあるらしいです。

そして、グルがこの理由で死刑を執行されずに残されると、部下の死刑を先に執行することもできず、一緒に逮捕された部下もみな長期拘留になる。

サリン事件がまさにそうなのですが、麻原以外にも数名に死刑判決がでていますが、麻原を生かしたまま部下だけ死刑を執行するのは難しいでしょう。

なお、ちきりん的には「執行すべき」と思いますけどね、このカテゴリーは。


(4)外人の死刑囚の死刑を執行しずらいのは、国際問題になるのを避けるためですが、

特にその犯人の元々の国で死刑自体が存在しない場合、制度論になるのを避けるという意味合いがあるのだと思われます。


そして(5)の、新左翼系のテロ犯人。彼らもなぜか死刑が執行されないんです。

たとえば、

・仲間のリンチ殺人事件(連合赤軍)・・・永田洋子、坂口弘

・三菱重工ビル爆破事件(東アジア反日武装戦線)・・・大道寺、片岡、大森(この人は北海道庁を爆破)など。

いずれも 1970年代の事件で、判決も 15〜 20年前に確定しています。(再再審請求とかが行われてるのもありますが)

これ、なんで死刑執行されないのでしょうね。

冤罪の可能性はゼロでしょう。「思想犯だから」とか言う人もいますが、冗談でしょ。彼らは単なる無差別殺人犯、テロリストです。

まだ仲間で捕まっていない人がいるから、その時の公判維持のため、と言う理由もあるのでしょうか。

左翼活動家に限らず、「共犯が捕まっていない場合、死刑は執行しない」というルール(?)もあるようですし。

つまり、他の人が捕まった時、その裁判で証言させるため、ということですね。


それ以外では、「警察や検察(法務官僚、法務大臣含む)が報復を恐れているから」というのも、あるんじゃないかな。

この「新左翼系テロ」の人達って「警察権力」を最大の敵だと認識しており、実際、過去には警察関係の人を襲ったり爆発したりしてるわけです。

しかもこの平成の世でも未だに、新聞の 3行記事とかでは「中核派メンバー(60)が逗子駅で革マル派活動家(65)に刺されて重体」ってな記事が載ってるわけで、

「まじなのか?」って感じもしますが、そういう人が仲間にいる限り、あんまり不用意に死刑にしたくないかもしれませんね。


ただ、これがホントだと「権力が暴力を怖れて法律執行をしない」という話になり、かなり大きな問題になるので、決してそういう理由があるってことにはならないと思います。


(6)は先ほども書いた、共犯が捕まっていないなど、後々の他の人の裁判で証言させるために、生かしておく必要がある、というケースですね。


それにしても「死刑判決の確定」と「死刑執行の判断」の間に、こんな大きな差があって、それでいいのか? という疑問はやっぱり残ります。


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そんじゃあね。


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2008-06-17 震災が問う私たちの“地方ビジョン”

地震の報道を見ていて、いろいろ考えた。


ひとつめ。日本は神戸の震災以来、一定規模以上の都市で地震が起こった時の初動動作など、地震後の対策をすごく学んだと思う。

神戸という日本を代表する都市の一つで、死者だけで5千人を超える規模の地震があったことで、関西だけでなく日本中がパニックに陥った。いろんなむちゃくちゃがあり、いろんなミスがあった。水もお湯もないところに大量のカップラーメンが届き、交通規制が行われなかったために緊急車両が動けなかった。悲惨だった。

けれども、そういった経験は次の学びにつがなった。幹線の交通規制を何より優先するとか、避難所の状況をまずは把握すること、ボランティアは一元管理、など様々な学びが活かされた。

神戸の時は、仮設住宅に人を割り当てる際、経済的に困っている順に、先にできた仮設住宅を割り当てた。当然そうするべきだと皆が思った。ところが、ご近所さんがそれぞれ違うエリアを割り当てられたため、コミュニティがぶっこわれた。一人暮らしの高齢者の中には、見知らぬ人しかいない仮設エリアで自室に引きこもり、そのまま寝たきりや認知症に陥る人さえ多発した。

この教訓は非常に大きく、そもそも地震でがっくり来ているときにコミュニティを壊してしまうことが、どれだけばかげたことか、多くの人が学んだ。新潟の地震の時には、「同じ村の人は同じエリアの仮設住宅にそのまま割り当てる」ということがなされている。

全国の都市が神戸の状況を見て、どういったものをどれくらい備蓄すべきか研究した。今回の地震の対応を見ていても、そういった教訓がすごく生きていると思う。


すごい。よかった。えらい。と思う。

★★★

もうひとつ、今回の地震報道を見ていて思うことがある。「地方の復興」とはなにか?が問われている、と。


中越沖地震の時も感じたのだが、今回はよりビビッドに感じる。なぜなら今回のエリアはあの時よりさらに「過疎エリア」だからだ。

ほとんど神戸と同じ規模の地震であり、実際に山並みを通っていた道路がぷつりと途中から消えてしまっている。それなのに、倒壊家屋数も死傷者数も信じられないくらい少ない。

さらに、ヘリコプターで救助されてくる人達の年齢を聞いて驚く。“一人暮らしの90才”のおばあさんを救助とか、77才同士の夫婦で避難所に、とか。

他所の地震報道にくらべても、圧倒的に子供の映像が少なく高齢者の映像が多い。そして、神戸の時には報道もされなかった「生活道路の分断により孤立した村」というのが何度も登場する。しかも「その村には10戸の民家があり・・」とか報道される。10戸??

新潟の時、それは「やまこしむら」という固有名詞だった。今回は、特定の村の名前は報道されない。だって被害を受けた多くの村がそういう状態だから。

ちきりんが思うのは、この人達にとっての「再建」「復興」とはいったい何なのか?ということだ。

★★★

生活道路を再度つないだとしよう。10戸の家庭に本当に人は皆、戻ってくるのか?壊れた家を立て直し補修して、家具や家電を買い直し、本当にもどってくる?その手間をすべて都会に住む息子や娘(彼らも60才だが)やボランティアが手伝ってくれ、家を補修するお金をすべて村が出すといったら、本当にそうする?

そんな高齢でも今までその村にいたということは、当然「ここで人生を終えたい」と考えてた方が多いのだと思う。だから、いきなり仙台の息子の家に身を寄せるとか、どこかの施設に入りたい、ということが本意だとは思わない。地震がなければ、当然に皆、その村に、その家に住み続けておられただろうと思います。

しかし、地震が起こり、すべてが「いったん振り出しに戻った今」、すべてを復旧して、その村に皆がもどるのか?

全員が戻らないとも全員が戻るだろうとも思わない。しかしたとえば10戸のうち半分の人が「戻る!」と決めれば、集落の規模は半分になる。10戸とか数十戸の集落が、地震から復興して「同じ規模で再スタートできる」とは、ちきりんには正直とても思えない。

そこに住んでいたのが自分の親なら、それまでいくら説得しても出てこなかった親でも、できれば自分と一緒に暮らすか、もしくは、もう少し別の(便利で安心なところに)居を移してほしいとお願いするだろう。もしくはそれが自分なら、地震がなければそこにずっと住みたいと思っていた場所であったとしても、いったんすべてが壊れてしまったのなら、もうあとの余生は市営住宅で過ごそうかと思うのではないか、と言う気もするのだ。

そもそも復旧までには早くても半年、道路の決壊が山の崩落によるのだとしたら元に戻るのに1,2年かかるようなエリアがあってもおかしくない。その間、行政が提供する市営住宅や仮設住宅で暮らしながら、本当に「元の場所に」「元のように家をたてて」「道路を直してつないでもらって」戻るのが、被災者の共通した望みであり、現実的にありうる策なのか?


すんごい考えてしまったよ。ヘリコプターの風によろめきながら一人では歩けず、両脇を抱えられながら避難しているおばあさんを見るとさ・・・この人はたとえ道路や電気が復旧しても、本当に元の村に戻るのか?戻れるのか?って。


あの流された旅館だって、地震の時「客が2人に従業員が3人、それに家族が4人いた」っていうのだ。どう計算しても経済的に成り立つ感じのしない人数構成比だ。

彼らはお金を全部行政が出しますよといったとしても、だよ。あそこにもう一度、旅館を建てるだろうか?それが「復興」なのか?


あなたが90才なら、本当にもう一度そこに家を建てる?


「日本の地方の将来の姿が問われている」と思う。こういう「限界集落」的な村落はたくさんある。放っておくと「いずれ大変なことになる」と皆が思っている。でも、実際に「大変なことになる」のは、日本人は長生きだし、まだまだ先でたぶん30年くらい後なのだ。だから皆、口では問題だというけど実際には全然危機感がない。

なんだけど、それが地震で一度「リセット」されてしまうと一気に「未来の選択」を今、決断せよと迫られる。

「この山の中に10名の高齢者が暮らす村を、本当に維持したいのか?」という問いにたいして、地震さえなければあと30年間、棚上げしておけたのに、地震のせいで、すぐに答えを出せと迫られる。

★★★

実は同じようなことは都会でも起きる。

震災で神戸の都市計画は100年進んだ、と言われている。どこの大都市もそうだが、戦後復興の中で事実上なんの計画性もなくぐちゃぐちゃに発展してきた。東京にも大阪にも消防車さえ通れない路地が山ほどある。建築基準を全く守っていない建物が密集するエリア、誰も権利関係を整理できない地区がたくさん存在する。

神戸でこういったエリアは最初に火事の被害に遭い、そして消え去った。

民主国家の日本では都会では道路ひとつ引くのも30年仕事だ。人が現に居住している土地を別用途で使用するのは並大抵のことではない。

しかし、震災はすべてを白紙からやり直せるチャンスを与えた。だからといって東京に震災がきてほしいわけでは決してないが、少なくとも、もしも震災がきたら、都市計画者は一気に「50年後に考えればよかったこと」を「今決めろ」と言われるだろう。

そして実は都会の場合、そういった「50年後の計画」は、もうすでに各自治体の「都市整備局」の課長の引き出しに入っている。大都市はたいていの場合、そういうプランをもう何十年前からもっているんだが、全く実施のめどが立たないので放ってあるだけなのだ。

だから、もしも地震がきて、何もかもがぐっちゃになったら、一気にそういう計画は日の目を見る。もっと露骨な言い方をすれば、そういった「机上の計画」が日の目を見るのは、大震災が起こった時だけなのだ。


ところが、地方は反対なのだ。

プラン自体が存在しないのだ。これらの限界集落をどうするのか?この過疎村をどうするのか?50年後に今の居住者の寿命とともに消滅するままに放置しようというのか、なんらか維持していこうとするのか。

なんのプランも行政にはない。村ひとつひとつについてだけではない。地方全体に関して、どうしていきたいのか、というプランがない。

行政だけの問題でもない。住民にも、これらの村々を事実上支えている都会の納税者にも、日本の中央官庁にも、どこにもその「ビジョン」がない。


日本の田舎をどうするのか?



この課題に対するビジョンを、最後に提示したのは「列島改造論」を提唱した田中角栄だった。彼は「全国の田舎を都会にする!」というビジョンを示した。

そして、それ以降、新しいビジョンは全く提示されていない。だれからも。


だから、ちきりんは思うのだ。「このエリアの復興って、どういう意味さ?」と。「誰かアイデアあるのん?」と。「まさか地震の前と全く同じ村を今からまた一から作り上げることを“復興”と呼ぶことに何の疑問も議論もないのん?」と。

★★★

震災直後の対策について、過去10年の間に私たちは多くを学んだ。

同じように、「地方の復興の意味」についても私たちはこれからたくさんを学ぶことになると思う。

地震から学べるものは結構多い。


そんじゃあね。

2008-06-16 ご飯シリーズ

久しぶりの“ご飯シリーズ”。超プライベートなコンテンツやね、このシリーズ。


まずは朝ご飯。

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これ、パンとサラダではなく“オープンサンド”の材料です。こんなたくさん?と思うかもしれませんが、これのほぼすべてを右の食パンにのせます。ちきりんはこの「トーストしたパンに山ほど乗せる」オープンサンドがお好みであります。

パンにマヨネーズを塗った後、まずリンゴをのせ(リンゴはでこぼこしていたり、芯をとった部分がへこんでいて隙間ができるので)その隙間にアボガドとトマトをのせ、その上にハムをのせて密着させ、最後にレタスを幾層にものせて「がば〜!!!!」とでかい口をあけて食べます。

最初にレタスのしゃりしゃり、その後にハムとアボガドのぐちゃ〜、そしてリンゴのシャキーン、最後にパンのばりばり!が混じり合って・・・すんごいおいしいが、他人様には見せられないくらい周囲にいろんなものが飛び散ります・・・

★★★

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こちらは比較的オーソドックスな冷しゃぶ。水菜をはさみで切り、ゆでた豚を乗せてごましゃぶかけてるだけ。調理時間5分。超簡単。

漆器のお皿は輪島で買ったもの。(昔は“漆の器がほしいなあ”とかいうと“そんじゃ”ってことで週末に輪島まで買いに行くような生活をしていたちきりんです。)それにしても、セブイレの冷やし中華を盛っても「本物」に見せてくれる凄腕のお皿です。

★★★

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これ、テレビの料理番組でやっていた「豚肉のマーマレード炒め」ってのを試してみたのですわ。マーマレードと醤油で味付けして豚を炒めてます。不思議な味で、そこそこおいしいのだが、結構大量のマーマレードを使うので、ちょっと「費用対効果」に疑問の残るメニューでしたね。

マーマレード結構高いのに炒めると風味が飛びますからね。最後に掛けてみるってほうがいいんじゃないか、とかいろいろ考えた。

まあ、おいしかったですけど。

★★★

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これ、見た目はしょぼいですが、たぶんこの中で一番おいしかったです。鶏肉のワイン蒸しです。ハーブとレモンと塩胡椒で味付けしてあります。がなんと言っても大量の白ワインで蒸し上げたら、めっちゃふわふわですんごいおいしかったです。ネギもワインで蒸されてよっぱらってる感じで大成功でした。

★★★

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これは今日の夕食。NHKの料理本を見て「豚肉のミョウガ巻き」を作ってみた。仕上げにごまを掛けてあります。大人の味でおいしかった。ミョウガって炒めるとおいしいと気がついた。

ところで右にあるのが「野菜スープ」なのだが、これ、ちきりんの家ではよく作り置きをしてます。今日のように暑い日は暖めずに冷スープとしていただきます。

このスープを作り置きするようになってから太らなくなったちきりんです。夜遅く帰宅しておなかがめっちゃすいてる時にこのスープを飲むようにしてるんです。水モノだからそれなりにおなかがふくれるのに、寝る直前に食べてももたれないし、作るのめっちゃ簡単だし、冷蔵庫で3日もつし。ありがたいです。

★★★

以上です。

So what ?


うーん。パターンが似てるよね。ひとつのお皿に最初に野菜をのせて横に調理した肉をのせる、というパターンばかり。結構同じようなもんばっかり食べてるかも?(実際には外食もあったし、お刺身の日は写真撮る意味なしなので載せてなかったりなので、食べたものはバラエティに富んでますが)

あと・・上は過去1週間くらいに作ったものばかりですが、レタスはどでかいものを買ったために、やたら何回も登場していますね。これは仕方ないでしょう。反対に大家族だと毎日買い物にいってもすべて一食でなくなったりするんだろうな。それはそれで大変そうです。

最近は生活に余裕があるので(仕事が暇な時期なので)、比較的新しい料理にチャレンジしてます。本見たりテレビで知ったことやってみたり。忙しくなると作りなれているものしか食べないですから。


まあ、そんな感じ。全然so whatになってないけど。



過去の食べ物シリーズを見たい方は、“ちきりん写真館”(右側の中程、リンクのところに載せてあります。)で料理の写真をクリックしてみてね。


あーおいしいモノ食べるって本当幸せ!

そんじゃあね!

2008-06-15 ボツ・エントリ

ちきりんのブログには「ボツ・エントリ」が存在する。

途中まで書いて、「うーん、いまいちな文章やね」と思うとアップロードせずにやめちゃったり書き直したり、で、日の目を見ずに埋もれていく文章がごくたまにだが、ある。


それを「弔う意味で」一回載せてみる。

下記は4日前のエントリのボツ・エントリだす。

★★★

タイトル「怨嗟の町が選ばれる」


ここ10年くらいの無差別殺人事件。殺す相手は誰でもよいと凶器を振り回す犯罪者。彼らが選ぶ街は、あまりにも特徴的だ。

地方では駅に車で突入して包丁を振り回すというケースが多い。東京だと新宿西口、池袋、そして秋葉原である。

この場所を見ていると、すごくよくわかる。彼らが凶器を振り上げている相手はいったい誰なのか。彼らは「誰をこの世から抹殺したいと考えたのか。」

★★★

今回、加藤智大が凶器を振り下ろした相手が工場長でも工場の正社員でもなかったことは、そのことを雄弁に語っている。彼は自分の周りにいる人など、全くうらやましいとも憎いとも思わなかったであろう。そんな人々など、彼にとっては“存在していないも同然”だったのではとさえ思える。

自分と違わぬ仕事をしながら安定雇用を謳歌する正社員たる同僚達も、その上で管理職として高給をもらっているであろう工場長も、全部“自分と同じ側のかわいそうな奴ら”にすぎない。おそらく彼はそんなものに憧れたことは一度もない。その意味で、今回の犯行の根源に“貧しい東北地方から工場へ派遣され虐げられた社員の恨みである”などという指摘はあまりにも的外れであるとちきりんは思っている。

正社員だの、安定した職業だのへの恨みややっかみ、憧憬や焦燥は、むしろ今回の事件の根底にそういうものがあると主張する人の心の中の方に存在しているにすぎない。

★★★

彼が憧憬し、必死で手に入れたいと考え、決して手に入らないのだと絶望したのは、「休日の秋葉原で無目的に浮遊する“悩まない魂”である人間達」だ。工場でまじめに働く、油まみれの人生を安定と呼ぶ人たちでは決してない。そうではなく、休日のホコ天で「人生を楽しめている人達」を、「一片の悩みさえないかのように浮遊できる人達」「その精神」を彼は嫉妬し、恨み、復讐したいととらえたと思う。


彼がずっと求めてきたものはそれなのだ。安逸を受け入れる精神、苦悩と無縁に見える人生。実際にはこの世に存在さえしていない、「苦悩することのない精神」を彼は、「俺には決して得られないものを皆は手に入れている。」と誤った。

実際には、そんなものを手に入れている人はこの世に誰もいないのに。

★★★

過去の無差別殺人事件を見ていると、ちきりんはいつも思うのだ。“犯人は、ここに幸せがあると思ったのね”と。

大阪の付属校で凶行に及んだ犯人は、エリートが集まると言われる地域屈指の付属校に“幸せが保証された人生”があると思ったのだろう。池袋や秋葉原でナイフを振り回す犯罪者は、繁華街の無秩序な群衆に「悩みのない人生」を感じた。

そして今回の犯人は、休日の歩行者天国の秋葉原に、友人と恋人と楽しむ「楽しい人生」がある、と思ったのだ。



「自分には決して手に入らない生活」があると思った場所が、犯行の場所として選ばれる。


そんな気がするわけ。



★★★

下関や山口で駅がターゲットにされることはそう考えると極めてわかりやすい。そういった地方を知る人ならわかるだろう。地方では駅前以外に「幸せな人たちが無目的に浮遊する場所」は存在しない。

駅は唯一の「羨むべき場所」なのだ。


★★★

別の例を出そう。


六本木ヒルズやミッドタウンや新丸ビルで暴れようと、過去の殺人者達は一度でも考えただろうか?


そんなことを彼らは思いつきもしなかっただろう。



この事件を、社会階層や経済格差問題と結びつける論調は、根本的に間違っていると思う。彼らが憧れたのは経済的な裕福さではなく、精神の安逸さなのだから。


以上

★★★

という文章を書いて、アップする直前に、あまりに保守的で退屈なのと、“説明的”でうっとーしー文章だなあと。


んで、書き直してみたわけ。

その前日から食べたものと、この件の感想を唐突に交互に配置してみようと思った。若干実験的だとは感じたが、そーゆー方法によってちきりんの伝えたいと感じていた「距離感」が表現できるかもと思った。


「あたしはこの事件が、格差とか派遣問題とか、んなもんとは全く関係ないと思っているよ」という“主張”ではなく“感覚”を、“説明的”にではなく“直感的”に伝えられる気がしたからだ。



というわけで採用された文章はこちら

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080611



「書く」というのはなかなかに奥深い。


そんじゃーね!

2008-06-14 HatenaMapが意味するところ

さて先日も書いたように、はてなが始める新しい機能の大半についてその意味がわからないちきりんなのですが、ひとつおもしろいと思えたのが、はてな村勢力地図。(これは公式にはてながやっているサービスではないようです。そこがまたおもしろいのだけど・・)

これです→ http://hatenarmaps.com/view/Chikirin


本来的にはどういう目的の地図なのかわかりませんが、別の観点でこれはおもしろい。

ちきりんが理解するところ(間違ってるかも、ですが)、ブックマークがたくさんついた記事を書き手の指向ごとに(タグで判断して?)カテゴリーし、地図にした、みたいなものらしいです。

地図にはエリア名がつけられてます。ちきりんブログはたいてい“社会”というカテゴリーの境界線上あたりに存在してます。(ただしこの地図、毎日変わるものらしいので、皆さんがご覧になった今がどうなってるか不明です。)

この「“社会”というカテゴリーの境界線ぎりぎり」というポジショニングは“おちゃらけ社会派”を名乗るちきりんにはまさに正ポジション。「あたってるじゃん」と最初は思いました。

ところがよく見るとその境界線の向こうは、“software”とか“programming”・・・(繰り返しますが、変化してる地図らしいので、今は違うかも。)


これ、変じゃない?


ちきりんのブログが「ネタ」と「社会」の境界線にあれば、まさにずばり!なわけですが、どう考えてもソフトウエアだのプログラミングだの、関係ないじゃん、と思うよね。


で、ちょっとひいて地図全体をみてみると・・・

そもそも面積の半分くらいは「IT&ネット業界用語」であることに気がつくわけです。


他にもjavascript, とは別にjavaもある、windows, ruby, security, web, linux・・・また、ネット用語とは言えないにしても、ちきりんなんてほとんど見たこともないtwitter,ニコニコ動画なども。全体の半分は「ちきりんには無関係な世界のカテゴリー」なんです。


で、

これはおもしろい!


と思いました。


★★★

ちきりんはあの「無作為抽出による電話での世論調査」ってのが信じられない。だってあれ、固定電話の番号だけから抽出するんですから。過去数年に一人暮らしを始めた若者はもう固定電話なんてもってないでしょ。特定のセグメントが抜けてるのに「無作為抽出」とかやっても世間を表すことはできない。

同時に「ネット調査」も全然信じられない。もちろんネット世代に向けたサービスや商品のマーケティングをやりたいならそれでいいが、社会的なことについて問うても意味ないでしょ、と思ってた。だって、まだまだネットだって「まんべんなくすべてのプロファイルの人が使っているわけではないはず」と感じてるから。

でも、それがどの程度なのか、今までその割合を概算でも教えてくれるものは非常に少なかった。というのは、「見るだけ、読むだけ」ベースならネットの利用者は非常に増えている。老若男女のPCがネットに(しかもかなり高速のサービスで)つながっている。だからある人はいうわけ。「性別別、年代別のネット普及率を見れば、もう“調査の結果の偏りは気にしなくてもよいレベル”といえます!」って。


ほんまか?と思ってた。

どうも信じがたいと感じてた。


ちきりん的には、物理的なネット普及率はともかくとして、情報を発信したり、アンケートに答えたり、買い物したり、コミュニティ作ったり、いわゆる「ネット上で能動的に活動します」という人はまだまだ相当偏っているはず、と思ってる。

ところが何度もいうが、それがどれくらい偏っているか、はよくわからなかった。たとえばアマゾンで売れている本が、実際の紀伊国屋で売れる本とどれくらい「傾向がちがうか」っていうデータって入手できないのだもの。

だからこの地図を見た時に画期的だわ!と思った。「ああ、まだまだここまで偏ってるんだ」と一目でわかるほど、明確にその証拠が示されたわけですから。

★★★

この地図で、Rubyというカテゴリーが一定の面積を占めるには、それについて書いたブログが一定数ある、ということだけではない。その記事に一定量のブックマークがついた、ということ。

つまり、書き手だけでなく、読み手側にもそういう記事をマークしよう!という人が相当数存在していることを示している。

世の中の人の8割以上(たぶん9割?)は“ルビー”なんて宝石の名前だと思っているってのに、ね。


つまり発信者だけではなく、一定の活動量のある読み手側を含めても、まだまだネットの世界の利用者は非常に偏っている、ということをこの地図は「その規模観」を含めて明示している。その意味で、非常に役にたつ資料ですよね。

たとえば朝日新聞や日経新聞の記事や、地上派テレビの番組、本屋さんで売られている本の「カテゴリー名と各カテゴリーの割合」を同じような地図にしたら、これとはまだまだ全く違う地図ができあがりそうでしょ。


というわけで、ブログにつけられる感想やコメントも「そういう偏りのある母集団からのもの」になる。

ちきりんは先日「自営業と会社員」の適性の差を書き、自営業の人には圧倒的に高い社交性が求められるとか、彼らには神頼み的発想がある、と書いた。

しかし書き終わってから気がついた。このブログを読む人、という母集団からすると、このエントリは必ずしも納得できるものではないだろうなって。だって「IT業界の自営業の人」は、他人より社交的である必要も、神がかり的発想を持つ必要も全くない。むしろ反対の人が多いかも、と思った。自営業の人といっても、一般の自営業とIT業界だけに限った自営業では、全く適性が異なるわけだ。

このエントリは、「ちきりんがどっち側にいるか」、「ネットという世界がどの程度までその他の世界と近づいているか、もしくは距離があるか」、を端的に示してる。


ちきりんは別にネットの世界の利用者が偏っていることの是非を語っているわけではない。ただ純粋に、こういう「どの程度の偏りか」をビジュアルに表す図表って、今まで案外なかったし、おもしろいよね、と思っただけ。

願わくば既存のメディアも、こういう地図を発表すればいい。各メディアの「偏り具合」がビジュアルにわかる。それっておもしろくない?

読売新聞と朝日新聞の差とかおもしろそう。ミクシーのこの地図をつくれば、ミクシーとはてなブログの性格がどうちがうか、ビジュアルにわかる。はてなブログとアメブロやライブドアブログの差も浮かび上がらせられる。


いつか、この地図のカテゴリが一般メディアのカテゴリーと同様になるのだろうか?


「決してなりません」


なぜならそれこそが現在起こりつつある「メディアの変質」ということだから。だからちきりんは、この地図がすごくおもしろいと思えたわけ。メディアがどう変わっていくかをビジュアルに表すインジケーターみたいだなあ、と思って。


そんじゃあね。

2008-06-11 怨嗟の街

昨日のフレンチはおいしかった。

バタくさくてクリームでこねくり回した調理方法が好きでないため、ちきりんはあんましフランス料理は得意でないのだが、昨日のとこはお魚系がとても上手に素材が活かしてあって爽快な舌心地でスタートでき、かつ、お肉もフォアグラとか使ってるのにもかかわらずあっさりしあげてあって、とてもちきりん好みでした。フルコースだったのに全部しっかり平らげたです。結構珍しいことだ。

ただ、平日とはいえあんなに客が少ないと(たぶん私たち入れて全員で5名のみ)、長くは存在し得ないかも。

割り勘で一人1万7千円。ってか、高過ぎてお互い「おごるよ」と言えない・・シャンパンから食後酒まで飲んでるから、んなもんか。

まあ、また行ってもいいかな、というレベル。


ちなみに今までちきりんが自腹で食べた食事で一番高かったのはホテル西洋銀座ができたばっかりの頃に食べたメインレストランのランチ。ひとり8万円ちょい。一人分が、だよ、8人分じゃなくてさ。しかもランチ。あれは驚いた。しかしありがたいことに、あれ以来(あれ以上に)驚いたことはない。

★★★

今日の朝はさすがに胃がもたれたのでグレープフルーツをレタスにまぜてサラダじたてにして食べる。おいしい。


例の犯人の掲示板への書き込みを集中的に読んでみる。あまりの後ろ向きさ、あまりの未熟さ、視野の狭さ、絶望感と孤独感のあまりにストレートな表現、に圧倒される。


昼はハヤシライス。インスタントのレトルトです。サラダはレタス、トマトにマリネ風のドレッシングを。暑いのでこーゆーあっさり系サラダ食べたくなる。



犯人が暴れた場所の選択が興味深い。「誰でもいいから」と通り魔事件をおこす人たち、ここ10年くらいすごく多いけど、パターンとしては次の3つか。

(1)薬でおかしくなってる。

(2)精神的な障害があるのに放置されていた。

(3)人生に絶望し、幸せそうな世間に復讐する。


三軒茶屋で包丁振り回した人と、どっかの駅に車で突っ込んだ人が(1)、池田小学校のと、中国地方のバスジャックの子が(2)、今回の犯人と、この間、死刑判決がでた池袋の事件の子が(3)かな。



夕食は卵のぶっかけご飯と浅漬け。やっぱ昨日のフレンチの豪華さに少々罪悪感があり、あえて粗食にしてみた。それにしても“卵のぶっかけ”ってなんでこんなおいしい?昨日の「ウズラのフォアグラ詰め」にまけてないですぜよ。



いつかミッドタウンや新丸ビル、ザ・ペニンシュラのロビーとかで暴れる子がでてくるだろうか?

でてこないような気がするわけ。こういう人たちが暴れるのは、新宿西口、池袋の雑踏、アキバのホコ天。地方の場合はほとんどが「駅」。地方では、そこしかないんだもん、幸せそうな人が集まってる場所が。

東京でも、いわゆる「庶民の雑踏」ばっかりだよね。「金持ちには関係ない場所で起こる事件」って感じだ。

アキバのとんでも男も池袋の事件の犯人も、新丸ビルとか行ったこともないし、しかも、そこにいる人たちに嫉妬したりもしていないと思う。その人達の何が幸せなのかもわからんと思う。彼らがほしい幸せは、アキバのホコ天を友達と談笑しながら歩くことだ。



仕事はちょっとだけ進んだ。ちょっとだけ飲んで、ちょっとだけ歩いてこよう。いい季節になったもんだ。



四川の地震もビルマのハリケーンも秋葉原の通り魔も、一瞬にして予想もできない終止符を、罪のない人の人生に突然突きつける。犠牲者の方の冥福をお祈りします。そして、明日はもうないかもしれない人生を大事に生きよう。


じゃね。

2008-06-09 世界記録の意味

レーザー・レーサーを試用して泳いだ北島選手が世界新記録を出しました。

これって、すごい。金メダルと同じくらい意味があるんじゃないかと思います。

ご存じのように問題は水着です。ここのところ、イギリスSPEEDO社の新水着、レーザー・レーサーを着用した選手の世界記録更新ラッシュが起っています。けれど日本水連の規定により、日本代表選手は北京オリンピックでこの水着を着用できません。

日本だけの問題ではありません。北島選手のライバルであるハンセン氏もナイキと契約を結んでいるため、同じ問題に直面しています。アメリカだから契約内容ももっと厳しく、違約金は北島選手よりもかなり多額なのでしょう。

もちろんナイキはハンセンに勝ってほしいし、ミズノは北島に勝ってほしい。誰もスポンサー選手の勝利を邪魔したいわけではありません。けれど当然、自社の水着を着て勝ってほしい。悩ましい選択です。


★★★


背景から見ていきましょう。オリンピックにでる選手はみなアマチュア選手です。なので、スポンサーに相当の金銭的補助をしてもらわないとやっていけません。

日々の生活費、専属トレーナーやコーチの給与、プールの使用料、遠征の交通費、ホテル代、水着や高栄養食などなど。普通の人が一年暮らすために必要な生活費が年数百万だとすれば、その数倍以上のお金がかかることは容易に想像がつきます。

道具が少ない水泳ではスポンサーになってくれるのは水着メーカーくらいのもの。彼らがスポンサーからひいてしまうことは、日本のアマチュア水泳業界にとって文字通り“死活問題”。

一方で水着メーカーの立場。彼らはこういった一流選手に相当額を“投資”しています。大きな大会で、自社のロゴがついた水着を着てプールサイドで選手が手をあげる。その映像が世界に配信される。その広告効果を○億円と踏んで、何年も前から投資を続けるわけですよね。多くのメーカーは、芽がでるかどうかわからない無名の時代から、多くの選手の生活を丸抱えにサポートしています。


そしていよいよ晴れの舞台がやってきた日

選手が着る水着に自社のロゴが無いかもしれない。表彰台に立つ選手が着ているのは、みんなレーザー・レーサーかもしれない・・。


★★★


皆が考えているのは、「北京以降」の話でしょう。北島選手自身は全くスポンサー探しに困らないはず。あの記録、あのキャラです。水泳引退後のCMなら自動車でも洋服でもビールでもなんでもいいし何社でもいいのだから、「引退後の数年の専属契約」を約束すれば、水着以外の会社で彼のスポンサーになりたい会社はたくさんあるでしょう。今回の大会で違約金をミズノに払う必要があっても、それをすべて丸抱えにしてくれるスポンサーだって見つけることができるでしょう。

でも、他の選手はそうではありません。まだまだこれからという段階の、もしかしたら北京の次が本番かも、くらいの若手選手がたくさんいます。

北島選手ほどの実績も知名度もない彼、彼女らにとってそれはほとんど解のない問題です。北京で契約違反の水着を着て、それでもまた次の4年間、日本の水着メーカーが自分の支援のためにお金を出し続けてくれるか、次のオリンピックでもその会社の水着を着ない可能性がある自分に?

それは自分の選手生命を左右しかねないほどの問題です。

★★★

北島選手よりハンセン選手の方が大変だろうと上に書きました。違約金は桁が違うだろうし、契約の細かさも半端じゃないでしょう。そして、それを認めた場合に株主から訴えられる可能性の大きさも、ナイキとミズノでは全然違います。

誰もかれもが悩んでる。SPEEDO社以外・・


★★★


昨日ニュース番組で司会の江川卓氏が聞きました。「で、スピード社の水着はやっぱりそんなに早いんですか?」と。北島選手は答えていました。「そうですね、いろんな面で、メンタルも含めて」と。

なるほどそうかと。

「この水着を着れば早い!」と選手が思う。そのことが記録を呼ぶ面もあるのだ、と北島選手は言っていたのです。


とすれば、ミズノやデサントが今からいくら水着を改良しても、それはもうほとんど無意味な行為だというわけです。必要なことは「世界中で、その水着で新記録がでて、選手が“これなら勝てる!”と自己暗示をかけられるかどうか」という点でもあるのだから・・。

確かに極限的な状況での1秒を切る記録の差。「魔法の水着だと信じられるかどうか」、それさえも、いやそれこそが、極めて重要なことなのかもしれない。


★★★


先月末のアメリカでの大会。ハンセン選手はスピード社の水着を試してみました。でもタイムは平凡だった。江川卓氏がその点を北島選手に聞くと彼はこう言いました。「まじめに泳いでないです。もう調整の時期ですし。」


ハンセン選手のその大会は5月の末。

「もう調整の時期だから、まじめに泳いでない?」


じゃあ、今回の6月の大会で世界新を出した北島選手は、調整時期でないの? 今頃、世界新を出してて、オリンピックにまたピークを持って行くのって、大変じゃないの? そういえば昔、選考大会ではなく本番のオリンピックに照準を合わせた調整をして代表に選ばれなかった女子選手がいたよね!?


もちろん北島選手はハンセン選手とは状況が違うところもあります。ここのところの世界新はすべてハンセン選手が持っている。北島選手としては、彼にプレッシャーをかけるためにも世界記録を出しておきたかった、そういう理由もあったかもしれません。

でもちきりんは、もうひとつ大きな理由もあったんじゃないかと思ってるんです。「ここで自分が世界新を出せば、水着問題を解決できる」と考えたんじゃないかなと。


だからあえて彼はこのタイミングでさえ、「調整」せずに世界新を狙いにいったんじゃないの?と。


★★★

今回、北島選手がオリンピック直前のこの大会で、調整をせず全力で泳ぎ、世界新を出したことで、すべての日本選手がスピード社の水着を着る権利を得られるでしょう。そして世界にはもうひとり、北島選手に感謝しなければならない選手がいる。


ハンセン氏です。


今回、北島選手がスピード社の水着で世界新を出したことで、ナイキも考えるはず。「ナイキで負けたハンセン選手」より「金メダルのハンセン選手を応援するナイキ」になるべきじゃないかと。

北島選手がスピード社の水着を着られないなら、ナイキもハンセン選手にスピード社の水着を着せる必要はありません。しかし、北島選手が着るなら、、、話は違ってきます。


ハンセン選手にはもうひとつ選択肢がありました。先月末の「調整レース」でスピード社の水着を着て、「調整」せずに「本番」の泳ぎをすることです。

そして今までの記録を上書きする世界新をだせば、その時点で、彼も、北島選手もスピード社の水着を着られることが決まっていたはず。今回と反対のことが起こったはずなのです。まずはハンセン選手がスピード社の水着を着ることが決まり、それなら北島にも着せなくちゃ!と日本側が思う、という順番で、ね。



平泳ぎの世界にはふたりの選手がいます。


水着問題を解決できる二人のシンボリックな選手が。


その二人には二つの選択肢があった。オリンピックの3ヶ月前の大会で、オリンピックに向けて調整の泳ぎをするか、世界新を狙える泳ぎをするか。


ハンセン選手には(世界新より)本番での金メダルが大事だった。金メダルをすべて北島に持って行かれたアテネの結果を思い出せばそれは容易に想像できます。



英語のリーダーシップとかフランス語のノブレスオブリージュとかではない。日本語の“心意気”いう言葉がよく似合う。北島選手はほんとかっこいい。

がんばって。



金メダルをとれたら、肩にタオルをかけてインタビューを受ければいい。


MIZUNOと大きく書かれたタオルを肩にかけて、最高の笑顔で金メダルを高く掲げればいい。そうしたら、世界に配信されるのはその映像じゃん。ミズノもその株主も、きっと心からその金メダルを喜んでくれるだろう。

金メダルを高く掲げる、上半身だけの北島選手の写真を一面に載せるくらいの、“心意気”が新聞各社にもほしいものだけど。


そんじゃね。

2008-06-08 「資産」と「能力」:ゲームの選択

さて昨日は、「戦いが能力から資産に変わった」という話をしました。今までは世界はその能力で戦っており、「勤勉」や「細やかさ」「こだわり」などにすぐれた資質をもつ日本人は「生産能力」という点で各国を凌駕し、世界2番目の経済力を誇るまでになったわけです。

しかし戦いは今や「何ができるか」ではなく「何を持っているか」になったわけで、石油も食料ももたず、人間の頭数さえ減少傾向に入った日本はもはや「世界の2位」どころか10位に入ることさえおそらく難しい時代になるであろうと。これが昨日のエントリの趣旨でありました。


「能力を競うゲーム」を「持ってるものの価値を競うゲーム」に変えたのは、結局は「両方をもっている米国」であったわけですが、それは、「能力だけあって、資産のない」日本をおとしめると同時に、「能力はないけど、資産はたっぷり」な中東、ロシア、そして南米やオーストラリアなどの相対的地位をぐぐいと引き上げ、世界の力関係を完全に変えてしまったのです。


では、この我らがニッポン、「持たざる国」の戦略はどうあるべきなのか?

この「持ち物の価値を競うゲーム」にどうのぞむべきなのか?

日本は今「環境技術で勝つ!」とか言っているが、これこそまさに「能力で勝負時代の発想」。完全にオールドパラダイムであろうと思うのだ。もちろん節約技術で高騰する資源を有効に使えるという意味では若干でも「資産勝負」に関係するとも言えなくはないが、そんなものに“いいお客さん”、すなわち“金をもっている国”=資源国が関心をもつとも思えない。彼らは資源受給が逼迫している方が有利なのだから。

というわけで「技術で勝負!」みたい発想自体が「能力ゲーム」であった時代の戦略であり、「資産ゲーム」の時代に通用する発想ではない、ということを私たちはまず認識しなければならない。






なんちゃって。

★★★

でさ、


でもこういう考え方もある。「この資産ゲームは結局バブルでしょ?すぐに終わるのでは?」

そうね。食料も石油も昨日書いたように世界全体では「足りている」のだ。価格高騰のために貧しい国では需要問題につながっているが、富裕国である日本には関係ない。しかも「基本的には足りている」のだから、どこかでバブルが終わるだろう、と。


なんだけどさ。終わらせるには「誰かの意志と行動」が必要なんです。金融バブルを日銀と大蔵省(当時)が「総量規制」という“超のつく世間知らずの官僚でなければ絶対にできなかったであろうあまりにもぶっ飛んだ政策”で“その後、長く続くロスジェネを生むことも全然気にもせずに”実行したように、相当の“何か”がないと終わらない。(あんな政策、世の中を知っている人にはとてもできない。)

70年代のオイルショックの時であれば日本国中が省エネを徹底し、「生活のレベルをさげる」という行動に出た上に、すべての技術が省エネへと向かった。そして、ここが大事なのだが、オイル高騰で中東にヘゲモニーを奪われそうになった欧米は「じゃあ、おまえらが持ってない資産である食料も高騰させるぞ!」という戦略ではなく、「代替エネルギー」を作るという方向に舵をきった。一番大きいのが「原子力」である。

「資産で勝負!」をしかけた中東に対し、「その資源」がなかった欧米は、「他の資産で勝負!」するのではなく、「能力で資産ゲームを終わらせる!」という行動にでたのである。

そしてこの「石油という資産ゲーム」に「原子力技術という能力ゲーム」で勝負を挑んだ欧米の戦いが勝利を収め、石油価格はその後長きにわたり20ドル前後で安定することになったのである。






なんちゃって。

★★★

でさ、


じゃあ、今回このゲームを「能力ゲームに引き戻す」のは誰なのか。その人が「ぐぐいっ!」と舵を切らなければ、世界相手にその人の大胆かつ戦略的な判断と行動が勝てなければこのゲームは終わらない。


それは誰?それは何?


誰って、当然、今回負けてる方の人たちだ。勝ってる方の人にはそれを終わらせる動機がない。それどころか、彼らは誰かが「能力ゲーム」に戻そうとしたら全力でそれを止めようとするだろう。


今回負けてる国といえば、ええっと・・・


日本、韓国、アフリカの大半(資源のない国)、ミクロネシアのうち資源のない国、東南アジアのうち資源のない国(ビルマ、ラオスあたり?)、東欧州・・・







そんじゃまた。

★★★

1年2ヶ月前、自分がどれくらい何もわかっていなかったかが痛感できる記事

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20070427

2008-06-07 世界の戦略

昨年の11月23日、「これからの50年、世界を規定するものはなにか?」という自問に「石油価格」と答えているちきりん。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20071123



すごいことになってるよね、と思います。

経済レベルの比較ではオイルショックの頃をそろそろ超えたインパクトの値上がりでしょう。当時は74年が5ドル以下から倍の10ドル前後へ、79年が10ドルから25ドル付近へ、うろ覚えですが、倍、そしてまた倍って感じだった。

今回は同じインパクトがあるのは100ドルくらい、といわれていたのですが、それをすでに4割も超えたレベルに来てる。そもそも8年間で20ドルから140ドルまで7倍だからね。

なのになんであの頃ほどの問題になってないか。あの頃は大阪なんて「トイレットペーパー騒ぎ」で大変だった。いや大阪だけでなく当時は国をあげて省エネしたはず。銀座もネオンを消し、野球はナイターをやめた。3階まではエレベーター使うなとか、新幹線も冷暖房の温度を変えた。

今回は確かにいろいろ値上がりしてるけど、確かにガソリンは高くなってるけど「パニック」でもないし、「国を挙げて省エネ」にもなってない。なにが違うのか?

★★★

当時は、「価格問題」ではなく「実需問題」だったからですよね。今回は皆明らかに「実需問題」ではなく「価格問題」だとわかってるから騒がないのだ。「金融市場で高くなっている。」(正確には商品市場、もしくは先物市場)のであって、突然石油の埋蔵量が減ったわけでも、中国がいきなりアメリカと同じレベルのエネルギーを消費し始めたわけでもない。

食料も本当は同じだ。価格問題にすぎない。だから偉い人の中には「暴動なんてやめろ。食料は余ってる。」という人がいる。

確かにマクロ的には価格問題にすぎない。しかし、一部の貧しい国にとってはそれは「実需問題」だ。だから暴動が起こる。


オイルショックの時とちがって、今回日本が「物価高が庶民の財布を直撃!」くらいのニュース報道で済んでいるのは、日本が「価格問題」が「実需問題」に響かないレベルの国になったから、ということ。高くたって、ないわけじゃないんだから、買えばいい、ってことだ。

田中角栄首相が、あの特徴のあるダミ声で「我々は今こそ!倹約は美徳であることを再度思いださねばなりませんっ!」と“ほしがりません勝つまでは”を彷彿とさせるようなスローガンで“国民の決意”を問うていたあの頃だって、欧米先進国ではせいぜい小型車がよく売れますね、という程度であって、おそらくナイターやめたりはしていないのだ。


というわけで、こんなすごい価格になっているのに、すこぶる平穏な日本。

豊かになっただす。

★★★

さて、原油価格が20ドルから140ドルになるということは、ロシアと中東の財産が20兆から140兆になったということだ。いや単位はなんでもいいんですけどね。

そりゃーすごいことだよね。そんなに資産価値があがったら本当にウハウハだ。

そして、この「ロシアと中東」というのは、両方とも「アメリカの敵」なわけで、「アメリカの敵の富が7倍に増えた!」というのがこの8年間に起こったことなわけ。

しかも、それを起こしたのは、イラクの原油供給能力を何年もぶっ壊してしまったアメリカなのであるというこの皮肉。


笑えるほど皮肉。


がはは。


ざまみろアメリカ。


って感じです。

★★★

だが、報復に出てると思う。


みんな気がついてしまった。「自分が持ってるものの値段が上がると、超儲かるじゃん!」って。

あくせく働く必要はない。自分が何か人よりたくさん持っているものがあるなら、それが値上がりするように仕向ければいいのだ。ブリキのおもちゃでもなんでもいい。そしたら一気に金持ちになれる。



そして天下のアメリカ様は気がついた。


「食料の値段、高くしようぜ」と。


「なんで?」


「うちは実は穀物の大供給地帯だし、表庭のカナダはもちろん裏庭の南米も食料豊富な地域だろ?だけど寒いロシアにも砂漠の中東にも食料はないんだぜ。それに、中国は人口が多すぎて食料が値上がりしても富は得られない。うちだけが儲かる食料の値上げを画策しようぜ!」って。



「なるほど。でも、どうやって食料の値段あげるんだ?人口をいきなり増やすのは難しいし、食料の供給をわざと減らすなんて、すんげえ作為的なことやらなできんだろ?」


「ふっっふっふ、俺にいい案があるんだぜ。」

「なんだぜ?」

「食料を“腐らす”んだぜ」

「腐らせる? ってーと、わざと?」

「わざとだぜ」



「?? そんなことしたら、食べ物を粗末にするな!って怒られるだぜ?」

「怒られないだぜ。」

「なんでだぜ?」

「バイオ燃料にするって言えばいいんだぜ。」

「なんだって?だぜ」

「そしたら“エコだ”ってことになるから、考えの浅いエコ信者は誰ももったいないって気がつかないだぜ」



「ふううううん。そんな巧くいくかなあ」

「いくいく」

「ほんとに?」

「ほんとさ。しかもな、もっといいこともある」

「なんだぜ?」

「万が一にもバイオ燃料が技術革新ですんごいすすんで・・・」



「おおなるほど!」

「だろ?」


「うまいこと考えたな兄貴!」

「だろだろ!」

「ウヒヒだな」

「ウヒヒだよ」

★★★

中国もインドも自分たちがたくさん持っているものの値段をあげてこようとするだろう。


「げげげ、石油も食料も値段あがっちゃうぜ。うちもなんかで稼がないと」

「稼ぐなんてまじめな方法じゃ間に合わないよ。俺たちが特にいっぱい持ってるもの、それの値段をつりあげようぜ!」

「俺たちだけがいっぱい持ってるもの?」





人材だ!


頭脳も手足も。


たっぷりもっている!!



★★★

日本はどーする?

2008-06-04 人口を増やす裏技みっけ!

昨年の出生数は108万人9745人で、前年より約3000人減ってます。死亡者数は増えたので、日本人の人数は1万8535人の純減なんだって。日本人減っちゃうわけよ。(*1

でも今日の最高裁の判決により、母親が海外の人で父親が日本人、認知されずに日本国籍がもてなかった子供に国籍の取得が認められました。同様の子供が1万人いるんだって。

ってことは、日本人が今日、1万人増えると決まったってことじゃん。

ので、人口の純減数は差し引き8335人。


えらいぞ、最高裁!


もうちょっとだな。



離婚後300日以内に生まれてる子供で無国籍の子供もいるじゃん。裁判で「国籍を認めて!」と訴えてる人たち。あの子達何人いるんだろ?毎年2800人生まれてるらしいよ。20年分で5万6000人ってことでしょ。


おお、日本人数、(たぶん)純増じゃん!



簡単じゃん!



最高裁にかかってるってことだな、少子化対策は。



少子化対策費は、難民とか、長く不法滞在して今ではもう日本で子供も生んで定着している家庭とか、そーゆー“日本国籍を求めて裁判を起こしている人たちの訴訟支援費”に使うってのはどうかね。


我ながらいい案だすなあ〜

★★★

全然関係ないけど、オバマ氏がクリントン氏に勝って指名代表になったのと、ソフトバンクがドコモに勝ってiPhoneの販売権を得たニュースが、なんとなく似ている気がする。なんつーか「アタッカーの一本!」みたいなね。


んじゃ。



★★★

*1:前に書いたけど、出生数の増加は意味ないです。団塊ジュニアが最後のチャンスにかけこみ出産してる時期なだけ。ポイントは団塊ジュニアが40代に突入し、親世代が激減を始める5年後です。http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080116

2008-06-01 自営業、会社員、そして芸術家

ちきりんの周囲には自営業として成功している人が何人かいる。起業とか経営者というよりは、独立してフリーで働いている、一人か、アシスタント数人使ってるレベルの自営業。

彼ら彼女らを見ていると、自分とは全然ちゃうなあ、と思う。実は彼らの多くが「ちきりんも自分で商売したら儲かると思うよ!」と言ってくれるのだが、ちきりんは実際には会社員向きな性格で、独立には全然向いてない。

で、何が違うのか、まとめてみるです。


違いその1 「圧倒的に社交的」

独立して成功している人は圧倒的に社交的だ。ちきりんは全く社交的ではない。イヤな人はできるだけ避けるし、新しい人と関わりたいか、という点でも非積極的だ。

自営業で成功する人は、誰にでも自分をオープンにして、あっという間に“近しい関係”を初対面の人と作ってしまう。それが人為的でも意識的でもない。とても自然にそうなる。人とつきあうことが“面倒”ではないのだ。


違いその2 「圧倒的に楽観的」

「まあ、どうにかなる。やってみるべ」とか「巧くいくかも!!」とか、とりあえず前向きに考える。もちろん成功する人の多くは綿密に計画し、慎重に決断しているのだが、それにしても大前提として「リスクをとる」わけだから、最後は「なんとかなる」という気持ちが必要だ。

会社員は「これやって本当にホントにほんとうに大丈夫か?」ってのを、考えて、検討して、会議やって、ハンコもらって上司に責任が転嫁して、から、やっと「やってみる価値があるかもしれない。」と思う人であり、楽観的な人なんて「詰めが甘い」とか「世の中を知らない」と言われて評価されないだろう。

ちなみに、自営業と会社員のまだ先に「公務員」という仕事があり、彼らは基本的に「前例」がないとなんもやらない。


違いその3 「公私が同じでもかまわない」

自営業って公私の区別が全然ありません。土日でも夜中でも携帯に仕事の電話がかかってくるし、長い休みも連絡がとれないところには行けない。一方、会社員は有休とか祝日、休日ってのは「オフィシャルに」仕事から離れていい。

ちきりんはこの点だけでも自営業には関心がない。というか、無理だ。ちきりんは仕事とは全く異質な「ちきりんワールド」が自分の中にある。「精神世界」とか「感覚の世界」として「完全に仕事から切り離された時間やスペース」がない人生は耐えられない。

というわけで、「ちきりんには無理です、自営業」って感じだ。


違いその4 「神がかり的である」

これはなかなか説明が難しいのだが、自営業の人ってその思考にしばしば「神がかり」的なところがある。

たとえば「UFOを信じるか」とか「宇宙に別の地球があると思うか」「死後の世界は存在するか」とか、こういう質問をしてみたら違いが浮き出ると思う。自営業の人ってこういうのに「Yes」という人が多く、会社員はたいてい「あるわけないじゃん」って感じだ。

自営業の人って必ず“えべっさん”にお参りにいくし、事務所開くにしても方角にこだわり、お日柄をきちんと選ぶ。なにかあるとお祓いをしてもらったりもする。一方で、仏滅を避けて転勤するサラリーマンなんていないし、いくつか悪いことが重なっても「○○神社さんにでもお参りしてくるか」なんて思う会社員はあんまいません。

やっぱり、自分の資産の何倍もの借金をしたり、儲かる時と損する時の幅の非常に大きな仕事なので、「自分を守ってくれるはずの大きな力」が必要なのかな、とも思う。

★★★

という4点が、自営業に向いている人の特徴だと思う。


ところで「自営業か会社員か」は網羅的ではない。世の中には「自営業も会社員も向いてない人」がいる。「仕事が向いてない人」だ。「金を稼ぐことに向いてない」と言ってもいい。

だから会社員をやってみて巧くいかなくても「俺は会社員が向いてないから独立しよう!」と簡単に思わない方がいい。もしもあなたが金を稼ぐこと自体に向いてない場合、それでも金を稼ぐ必要があるなら“よりたやすい”のは会社員の方だからだ。

会社員は向いてなくてもとりあえず給与がもらえる。一方で、自営業は向いてないとすぐに収入が途絶える。「サラリーマンが向いてない=自営業が向いているはず」というのはとても危険な発想なので気をつけた方がいい。


この「仕事が向いていない人」というのは、タイプとしては「芸術家」だ。このタイプにはふたつの特徴がある。

(1)やりたいことしかやりたくない。

(2)好きなことさえやれれば満足である。


(1)を言う人は(2)のほうもきちんと理解しておくべきだ。(2)は「経済的にも」「非経済的にも」報われなくても「好きなことさえやれればよい」ということだ。

経済的に報われない方は自分が覚悟すればいいわけだし、ラッキーにも遺産があって「一生売れない作家・画家でいい」という人もいるだろう。

しかし、「経済的に報われなくても、好きなことさえやれればよい」と思えるためには強靱な精神力が必要だ。

人間には「誰かに認められたい」という非常に強い気持ちがある。この気持ちを甘くみない方がいい。

一生(死ぬまで)売れない絵を描き続ける芸術家は、たとえ親の遺産で生活していても、非常に心が強い人たちだ。彼らは「自分は表現するために生まれてきたのだ」と確信している。他人の評価などどうでもいい、というのが天才的な芸術家だ。

でも凡人は、たとえお金に困っていなくても「誰にも評価されず一生を送る」のはとてもつらいと感じるだろう。凡人は「一生好きなことさえできればいい」などと簡単に思わない方がいい。それがどれだけ大変なことか。会社のヤな奴を我慢するくらいこれに比較したら相当たやすく思えるちきりんは、100%会社員向き、ということだ。


★★★

最後にもうひとつ。

今日の文脈においては「主婦」もひとつの職業だ。会社とちがって(舅姑などが)「ヤな奴」であった場合、それは一生ついてまわるし、離婚と再婚は転職よりは大変だ。(会社は自分の意志だけで辞められるが、結婚は相手が合意しないと停止できないというすごい仕組みだ。)

こちらにもきちんと適性がある。「会社員が向いてないから独立する」のも無茶だと思うのと同様に、「働くのが向いてないから主婦になる」のも無茶な発想だと思う。

ただし、適性のある人には芸術家と同じくらいインパクトのある成果が期待できる選択肢でもある。

ちきりんが一生の間に仕事を通して成し遂げられることなど、専業主婦であったちきりんの母が“三分の一の手間”で成し遂げた「ちきりんという人格を一人前にして世にだす」という偉業に比べたら、あまりにもささやかなものだ。



自惚れ屋?

そーね。かなりの自惚れ屋です。



じゃね!