差別を巡る議論

ハンナ・アレントは少女時代を、ドイツ系ユダヤ人としてドイツで過ごしている。
ドイツを去るのはナチの政権が成立したためだが、それ以前から、学校などで様々なユダヤ人差別に遭遇しているとのこと。
そして彼女の母親は、差別的発言・行為を行ったのが教師であった場合、学校に厳重な抗議の手紙を送っていた反面、生徒による差別に関してはそれに「黙って耐える」ようアレントに言っていたそうだ。
それ自体は、差別的行為を行う同級生達と同じレベルに自分を貶めるなということだろうか。

ここでアレントの母親は、「差別」の法的・公共的な正当性を決して認めないとする反面、私的・共同体的領域での差別を容認している。
この母の態度が後年のアレントに影響を与えているのだそうだ。
ハンナ・アレントは、差別が許されないのは国家/法のレベルにおいてであり、私人の間で「差別」はあってしかるべきだとさえ言っている。
つまり子供が仲間内で差別を行うのは悪いことではなく、国や法を代行する教師が行うことは間違いなのだ。彼女は人種差別を禁止する「法律」にさえ反対したことがある。「法律」が私人の私的な行動を縛るのはおかしいと考えるからだ。

この考え方は、原則から言って正当なものだ。差別自体が悪であるという認識は共有されるべきだが、やはり法が個人間に介入するべきではない。

ただこれは原理・原則で、現実に具体的な差別の場面に直面した場合、法も人も善/悪の誘惑に逆らえない。現在、悪を見出し糾弾したいという誘惑に、私人も公人も流されているように感じる。流された結果、両者の守るべき領域が相互に侵犯され、かえって差別を巡る議論そのものが難しくなっているような。。
あるいは「私」があって「公」があって、それらの中間的な領域でこそ社会問題としての差別は起こっているようにも思う。「流通の部分」と言ってもいいが、ここをうまくつかまえられてないような気がするんだよな。。。。

責任と判断

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