朝青龍引退劇によるトラウマは長引いている・・・

朝青龍の引退によって日本人は様々な印象を受けた。精神的に強いショックを受けた人もかなり多い。それは朝青龍を個人的に好きだとか嫌いだとかにかかわらず、引退後数ヶ月経った現在に至るまで、われわれの心にある種の痛みと虚無感を残し続けている。鬱状態が慢性になっていると感じている人も少なくないようだ。そこで、朝青龍引退劇によるトラウマが長引いている人々のために、多少なりとも心理学の心得がある者として心理分析による簡単なセラピーを試みてみたいと思う。

一般的によく見られる症状:

・「朝青龍がいないならもう相撲なんか2度と見ない!」と決心したが、あまりにも寂しくて、あるいは朝青龍のいない春場所はどんな様子だろうかという興味からテレビをつけてみたが、毎日の取り組みの結果に対して無関心になっている自分に気がつく。

白鵬を見るたびに朝青龍不在の重さを感じて心が痛み、落ち込んでしまう。

・優勝の行方を決める白鵬把瑠都の取り組みさえ興奮を呼び起こさない。どっちが優勝しても重要ではないという感じ。

・新大関誕生?・・・今場所だめでも、来場所には大関になれるにきまってるから心配ないさ、という投げやりな気持ち。

・他のスポーツを見て気をまぎらわそうとしても気持ちがもりあがらない。

・「朝青龍は自分勝手で品格がないし性格が良くない、白鵬把瑠都の方がまじめでさわやかだ」、などと比較して、朝青龍に幻滅しようと努めて痛みを忘れようとするが・・・・・

・「もう朝青龍のニュースもほとんど聞かないし、日本ではもう影は薄いよ」、などという反朝青龍派の意地悪な言葉を聞くたびに、その人に対して軽い憎しみを感じる。そして朝青龍への愛着心が一層募っていくのをいやがおうでも痛感して絶望的な気持ちになる。


これらの症状の原因を心理学的に分析してみよう。

1.喪失によるトラウマ:自分にとって大切な物や人を失ったことによる心痛、悲しみ、落胆、抑うつ感。

2.怒りと憎しみの感情:ここには2種類の怒りがある:

 1)われわれにエネルギーをくれていた朝青龍を徹底的に批判して追い出してしまった相撲協会に対する怒り、みんなして朝青龍をいじめた、かわいそうだ、という朝青龍の立場に立っての怒り。

 2)われわれが朝青龍の相撲を楽しみにしているのを知りながら、それを全く無視してその楽しみをわれわれから取り上げてしまった相撲協会に対する怒り。ファンの気持ちを全く考慮せずに感情やくだらないプライドに基づいて決定を下したのだという腹立たしさ。

3.自分の無力さを自覚したことによる切なさと絶望感:朝青龍の相撲を見るのが精神的に大きなエネルギー源であると知りながら何もすることができずエネルギー源を絶たれてしまった、とても大事な人や物をいとも簡単に取り上げられてしまった時の情けなさ。そして朝青龍のために何の力にもなれなかった自分。自分の無力さをまざまざと思い知らされた後の抑圧されたような息苦しさ。

4.才能をもつ者を慈しみ大事に養育していくことは、人類進化への貢献であり、人間としての義務だ。才能をもった者の道を閉ざすことは非常に残酷なことであり創造主である神の意図を冒涜することだ。相撲の天才である朝青龍が自分の才能を開花させながら生きていける場所は、この広い世界の中でただひとつ、日本相撲協会だけだった。まだ優勝できる力をもっており記録を更新できる可能性もあった力の円熟期に、相撲協会が彼の前に門戸を閉ざしたのは人類の歴史にさえ影響を与えたともいえる神をも恐れぬ無謀な決定だった。もし朝青龍が自分の肉体的限界を感じて自分の意思によって引退していたとしたら、寂しさを感じたとしても、このような深い抑うつ感をわれわれが感じることはなかったであろう。


朝青龍がわれわれの心の中でこんなに重要な存在になっていたとは彼がいなくなるまで誰も気づかなかっただろう。われわれは大相撲には朝青龍がいるのが当然だという気持ちになっていた。いつも本場所が始まるのが楽しみだった。相撲のおもしろさをわからせてくれたのは朝青龍だ。それは彼が数多くの技を土俵上で見せてくれたからばかりではない。彼は土俵の上と土俵の外で自分の人間的本質を見せていた唯一の力士だったからだ。自分の感情を抑えて知的に振舞うことが美徳とされている日本人にとっては新鮮な突風だったのだ。民族的にも外見的にもわれわれと同じアジア系でありながら内面の自由に基づいて行動する朝青龍は、われわれ日本人がかたくなに守ってきた常識という行動枠をことごとく打ち破っていくように思われた。彼の行動のひとつひとつに対していいとか悪いとかの判断を下したとしても、われわれの彼に対する感情には何の影響もないことに気づく。本当の朝青龍ファンというのは彼の欠点を知りながらも、彼の本質というものがしっかり見えていて、その本質を100%受け入れているのだ。好きという感情が損得勘定や理屈で起こるものでないことは誰でも知っている。

ここでしっかり自覚しなければならないことは、人間的に立派で英雄的な人々だけがわれわれを幸せにしてくれるのではない、という一見矛盾した人間の心理構造だ。その人の存在自体が心にエネルギーを与えてくれる時、われわれは好きという感情を抱く。本質が理解できると行動や言動も理解でき、むやみやたらに幻滅したり怒りの感情を抱くことはない。

日本人の傾向として私がずっと以前から注目していたのは、去って行った者を早く忘れようとすることだ。それは悲しみや苦しみを感じずに穏やかな気持ちでいたいという試みなのだが、その人がそばにいようが遠くにいようが、心の中にその人の軌跡が残っていたり、その人に対する感情や思いが息づいているうちは、その人はわれわれのそばにいるということなのだ。無理やりその感情を押さえ込んだり変形させようとする試みは、抑うつ感を一層助長させることにつながる。どんなにつらくても自分の感情をあるがままに素直に受け入れ、「強い感情を経験することこそ真摯に生きている証しであり、人間として成長するための栄養剤なのだ」と理解することだ。それが自分を尊重するということであり、結果としてわれわれは人間的深みを増すことになる。

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